A:樽前arty2011×記憶の循環(苫小牧市立樽前小学校)

樽前arty(ギャラリーLEO他)×記憶の循環(苫小牧市立樽前小学校 2011/8/6-14)

札幌のアートとラーメンの動向を追う当ブログとしては、今回はほんのりと番外編です。久しぶりに休暇を申請して、ドライブがてら苫小牧まで足を延ばしました。もちろんお目当ては、ここ数年来、同地で活動されているアーティスト集団「樽前arty」主催のイベント「樽前arty2011」と、それとのコラボレーション企画である「記憶の循環」です。「樽前arty」は昨年活動の休止を宣言されていたと記憶していたのですが、集団としては活動しないけれど、イベントは継続させてゆくといったところに落ち着いたのでしょうか。内情については無知ですが、なにはともあれ継続は大歓迎です。長い時間をかけて地域に溶け込んだこのイベント、途絶えさせてしまうには惜しすぎます。

今回はチラシがとても豪華ですね。ホテルの宿泊優待プランまで盛り込んだ、内容だけを見れば、観光雑誌さながらの充実ぶりです。ただし「樽前arty」と「記憶の循環」がそもそもは別のイベントであることや、なぜその両者がコラボレートしているのかということが非常にわかりづらいうえに、開催概要にあたるテキストも見当たりません。美しくデザインされていて見栄えはするのですが、情報を断片的に集めただけで、それらを伝達することへの配慮が欠けているように思えます。僕も同行者の方も、いったいどこで何を見ることができるのかあまりよくわからず、とりあえず会場へ向かうしかなかったほどです。ちょっと残念。

「樽前arty」の企画として会期中に常時開催されているのは、「樽前堂〜不思議な夢〜」(ギャラリーLEO-1)のみ。ライブパフォーマンスや演劇、パネルディスカッション等もあるようですが、時間の都合で不参加。「樽前堂」のみを拝見してきました。

アートマーケットと呼ぶのが聞こえがよいのでしょうが、要するに展示即売会ですね。チラシにはキュレーションをされた方によると思われる「展示としても一つの空間を創りあげるためにテーマを持たせました。」というテキストが載せられていますが、展示空間を拝見するかぎり、テーマを持たせ得ているのか、大変疑わしいところです。そもそも「不思議な夢」というテーマがどこから導かれたのか、あるいはそのテーマがどこに着地しているのか、全く不明です。そんな余計なことをせずに、素直に作品に向かい合わせる方がよほどよいでしょう。

個々に見れば(「記憶の循環」を見た後に思ったことですが)、例えば熊沢桂子さんの場合のように、展示している作品と同等のものを買えるのはとても魅力的だと思いました。また拝見している途中に、地元の方と思しきご高齢の方々がやってこられ、ポストカードなどを買ってゆかれていました。「樽前arty」がいかに地域に浸透しているか、片鱗を見た気がしました。賞賛すべき成果だと思います。

「ギャラリーLEO-1」から少し離れたところに、「記憶の循環」の会場となっている、苫小牧市立樽前小学校があります。平屋建ての校舎。周囲との境界が曖昧な校庭。錆びたバックネット。にぎやかな音の鳴る砂利道。散策路のある広い森。蝉の声に混じって聞こえる、子どもと先生のいかにも親密そうなやり取り。田舎の小学校のステレオタイプのような佇まいです。海が近いせいか、空気は湿気をたっぷりと含み、木の幹や木陰には苔がびっしりと生え広がっています。

夏休みとはいえ、よく小学校を会場として借りられたものだと感心します。これも「樽前arty」の地道な活動の成果なのでしょう。

以下、拝見した順に作品について書いてみます。タイトルの失念はいつものこととご勘弁ください。

熊沢桂子:校庭の端。バックネット裏の芝生の一角に、透明なガラス製の、わらびのように先端が丸まった植物を模したオブジェがあります。オブジェは一本一本大きさ太さが異なり、それらが数本まとまって一群をなしたものが数箇所に設置されています。注意を促す立て札がなければ見逃してしましそうなほどひっそりと、しかしガラス特有の煌めきを秘めて佇むこれらのオブジェたちは、自然の神秘を顕現したかのような美しさで、蝉が羽化する瞬間を目撃したときの感激にも似た懐かしい感情をくすぐります。(熊沢さんの作品は校舎内にもあったのですが、そちらについてはあまり言うべきことがないので省略)

ジェームズ・ジャック:こちらも校庭のはずれ。小高く土が盛られた山の上に、ジェームズさんの作品の痕跡である赤っぽい土が撒かれています。小学生たちとともに土や灰を撒くパフォーマンスをされたようですが、それがどのようなものであったのかは、残念ながら知ることはできません。一応その痕跡を見たということで、ここに書いておきます。

長澤裕子:校舎の裏手、キノコの栽培場のなかに、石版が規則正しく並べられています。個々の石版には六〜七本のゆるやかなカーブを描く溝が刻まれており、それらを連ねることで、空気の流れを視覚化する仕掛けです。明解でよいのですが、肝心の栽培場付近が、それほど空気の流れを感じる場所ではなかった(むしろあまり空気が流れない場所に思われた)ので、設置場所にひと工夫必要そうです。

藤沢レオ:栽培場からさらに奥、遊歩道のある森へと入ってゆくと、木の幹に小さな円筒形のものが貼り付けられているのに気づきます。円筒の内側の底は蛍光のピンクで塗られており、その面が見えるようになっています。立て札のある位置まで行って見渡すと、かなりの広範囲にわたり、多くの木に、無数の円筒が貼り付けられているのがわかります。全ての円筒がこちらを向いていて、木々が怪しく光るまなざしを差し向けているかのような気分にさせられるのです。子どもの頃の、森の奥に迷い込んだ時に感じた不気味さを蘇らせる試みでしょうか。確かに不気味ではありましたが、モノとしてやや陳腐。正体が先にわかってしまい、興ざめしえしまうのが残念です。

小林麻美:教室の中に大きな油彩の作品を置いています。空間の設計はとても恣意的で、カーテンを用いてひとつの教室を二室に区切り、一方の壁際には作品を配し、もう一方には低学年用の小さな机と椅子で席をつくりカーテンの隙間から作品を覗き込ませるといった、さながら小さな劇場か映画館のような空間が準備されています。油彩は、複数の人物がタオルを全身に巻き付けながら、プールサイドにたむろしている様子のもの。床のタイルの模様がタオルの柄へと侵入し、またタオルの柄が周囲の空間へと拡散してゆく、色や形、物質や空間の境界が交錯しあい、侵食しあって限りなく曖昧になってゆく、不思議な世界が描かれています。難解です。ただこの画面の意味内容よりも、劇場的な空間で作品と対面する仕掛けによって、ノスタルジーを喚起することが狙いなのだとは思います。画面が難解なため、仕掛けとのバランスは危ういかもしれません。

藤本和彦:児童用の学習机の天板を無数に連結させて、教室の床や教卓の上などに敷き詰めています。天板にはたくさんの小さな穴が空けられていて、天板によってはその穴にトグサが差し込まれ、風化した記憶に新たな生命が宿るといった、まさに「循環」の様相を示しているかのようです。が、雰囲気としてはどこか殺伐としていて、湧き上がる感情はもの悲しさや切なさが先に立ちます。ひょっとしたら、ノスタルジーの二面性を意識されているのかもしれませんね。

前澤良彰:水たまり、祭飾り、花などのイメージの断片が、モノクロームやローキーの写真で提示されています。大きなケースに入れられ、まるで標本箱を並べているかのようです。それぞれ素敵なのですが、タイトルにあった「1968年〜」(詳細は失念)という部分がどれほどそれぞれの写真と関わりがあるのか、あるいは今回の「記憶と循環」というテーマと関わりがあるのか、そしてこの小学校という場とはどうなのか、判断しかねます。

原井憲二:シンプルな紙の作品が二点です。一点はひらがなで綴られた樽前小学校の校歌の歌詞を、ひらがなの部分を切り抜いて額装したもの。オルガンの上に置く気づかいが素敵です。もう一点は校庭の真ん中にある桜の木を、絵の具などは一切使わず、紙にドットのような穴を無数に空けることで描きだしたもの。目の錯覚によっておぼろに浮かび上がる桜の像が、薄れゆく記憶のなかの風景と、絶妙にリンクします。直截さに一番好感をもった作品です。

板東史樹:体育館のなかに苔が茂りシダ植物が芽生える場面を、模型を使って写真化した作品です。ただし何が模型で何が実物なのか、粒子の荒いモノクロームの画面と相まって、作品を見るだけでは判断できません。もし体育館がこのまま何百年も放置されたら、このような場面を実際に見ることができるかもしれないといった遊び心満点の未来予想が込められていて、難しいことはなしに面白いと思える作品です。

富田俊明:体育館のステージの上に、長テーブルと椅子が荘厳な様子で置かれています。テーブルの上には真鍮製のお皿が多数置かれ、そのお皿には、おそらく(外国の?)児童の手によると思われるイラストや言葉が刻まれています。内容は食事に関するもので(魚嫌いの子の多さに驚きます)、学校における大きな関心事のひとつである給食との関係であろうことは容易に想像できますが、設置場所や演出には疑問が残ります。

全体的に見ますと、会場となった樽前小学校という空間と、真っ向勝負をしている作家と、そうでない作家との温度差が随分あったように思えます。また「記憶の循環」というテーマへの取り組みに関しても同様です。それぞれの制作スタイルの問題だとして一任してしまうのもひとつのやり方ではあるのでしょうが、この企画を今回限りのものとしないならば、意識や姿勢の共有を促して、場-テーマ-作品のより深い響き合いを生じさせる正しい意味でのキュレーションというものが、今後は必要になってくるに違いありません。

蛇足ながらもの申します。作家の頭数を揃えることや、テーマを設定してそれに沿った作品を提出させることがキュレーションではないでしょう。安易に用いられるキュレーションという言葉。やたらに増え続けるキュレーターと呼ばれる存在。そろそろその無節操さを反省してもよいはずです。

A:上遠野敏個展「ネ・申・イ・ム・光景」(CAI02)

上遠野敏個展「ネ・申・イ・ム・光景」(CAI02 raum1 2011/7/23-8/27)

もう何年も前に、芸術の森美術館に友人と行ったときのことを思い出しました。ちょうど「北の創造者たち 虚実皮膜」という展覧会が開催されていて、当時の僕にとっては何やらわけのわからない、キャプションを一生懸命に読まなければどう接してよいかもわからない、とてもコンセプチュアルな作品が数多く展示されていました。いわゆる現代アートと呼ばれるものと接した、初めてに近い経験だったかと思います。そのときの記憶はほとんど薄れてしまっていましたが、その一部を呼び起こされました。「虚実皮膜」に出品されていた上遠野さんとの、期せずしての再会です。(会期のチェックをすっかり忘れていて、「CAI02」へお邪魔したらたまたま開催中だっただけというのは内緒です)

展示空間は異様な空気に満たされています。原因は、入口の方を向くように置かれた数躯の仏様(お地蔵様?)に他なりません。これには驚きました。これだけの仕掛けで、まるで深山霊域に迷い込んだような気分です。思わず手を合わせそうになります。お賽銭を置いてゆかれた方がいるのも納得です。壁には大きく引き延ばされた写真が一列に、カラーものとモノクロのものが織り交ぜられながら、規則正しく飾られています。壁に沿って一巡しようとすると、ちょっと仏様に進路を遮られることがあるのはご愛敬でしょう。

写真は、霊験あらたかな場で撮影されたと思われるものが数点ありますが、大半は日本各地の風景を背景として、画面のほぼど真ん中にミニチュアの社(=神の象徴)か、小さな仏様の座像を設置して撮影されたもののです。ご神体と思しき巨石、冬の洞爺湖、犬島の工場跡など、雑多な風景のなかに象徴を置いて撮影されたこれらの写真は、おそらくは作家が神性・仏性を感じる場において、それをさらに顕在化させるといった意図があるのだと思われます。ただ、この方法はずいぶん強引ですし、風景が本来もつ雄弁さに蓋をしてまですることなのかと、その効果にも疑問を持ちます。もしかすると他の意図があるのかもしれませんが、僕には読み取ることが困難でした。

背景の整理への配慮は感じるものの、基本的には単純な構図と単純な方法による写真の連なり。その様子を見ると、あるいは作家は、これらの写真を、それこそベッヒャー夫妻の仕事のように愚直に集積した先に、何か特別な意味が立ち上がってくるのを期待しているようにも思えます。それこそ神や仏に祈るような気持ちで、と結べばうまく落ちもつくでしょうか。

不意に記憶が蘇る経験をしたのはよいものの、八年前からほとんど成長していない自分に愕然としました。作品を読むということに必要な能力とはなんなのか、どうすれば身につくのか、どなたかに教えていただきたいものです。

A:河合春香・中村美沙子「つつまれる」たましい、こころ、からだ、うまれゆくのはいまのいろ。(CAI02)

河合春香・中村美沙子「つつまれる」たましい、こころ、からだ、うまれゆくのはいまのいろ。(CAI02 raum2/3 2011/7/30-8/9)

いままでひっそりと書いてきたこのブログ。うっかりTwitterを始めてしまったせいで、にわかに反響をいただいているようです。小心者の僕は、とたんに緊張感をおぼえ、書く手が鈍り気味です。ですが実のところ、ブログを始めた当初から緊張しっぱなしではあります。作品を前にしても何の言葉も浮かばなかったらどうしようという、杞憂と笑われてしまいそうな、でも確かな不安があって、だからこうして毎度の書き始めはとても緊張します。書いた文章の内容を批判されることは平気です。形にできないことが恐いのです。つくづく自分は物書きには向いていないと思います。

表現行為をされる方、とりわけ身体表現、音楽、そしてライブペイントなどを即興でされる作家の方々は、そのような不安に駆られることはないのだろうかと、素朴に疑問に思います。観客の視線を一身に集めるその瞬間に、足の運びが、旋律が、筆の動きが、止まってしまうかもしれないと恐怖を覚えることはないのかと。

こんな書き出しをしてみたのは、今回拝見した河合春香さんと中村美沙子さんの共同展での作品が、まさにそのライブペイントであったためです。

会場となっている「CAI02」さんの「raum2/3」は、二面の白い壁が向かい合う細長い作りの空間です。会場に入ると、右側の壁には河合さんが、左側の壁には中村さんが、それぞれ壁面をめいっぱいに使って作品を描いています。壁面には数カ所に小さなキャンバスが貼り付けてあって、ペイントに立体的な変化をつける工夫が施されているほか、所々に自作の缶バッジや髪ゴムなども作品の一部として付け加えられています。

作風について述べてみますと、河合さんの方は、ピンクや黄色といったビビッドな色を用い、奔放に筆を振るって軌跡の重なりや絵の具のたれを生じさせる、無作為的な抽象の作品。一方中村さんは、渋めの中間色を用い、水墨的なタッチで竹林を描き、さらにキャラクター化された鳥やウサギなどの動物を多数描く具象的な作品と言えます。加えて言えば、河合さんの作品は、いかにも手慣れているといった印象です。かすれ、にじみ、たれといった偶然的な効果を楽しみながら、そしてときにドットを打って理性的に画面を整えるようなこともしながら画面で遊ぶことを、制作の方法としてしっかりと確立されているのだと思います。それに対し中村さんは、こつこつと積み上げるようにモチーフを描き、一見物語性を感じさせはするものの、その実無意味な連鎖を生じさせて画面を埋めてゆく方法です。方法についての確信めいたものは感じられず、それが不安定な、不穏な雰囲気を醸し出しています。河合さんの軽妙さと、中村さんのどんよりとした不穏さが好対照を成している、と言いたいところですが、全体の雰囲気は中村さん寄りで、やや重く感じられます。

ライブペイントによって生まれた作品をどう呼ぶかは難しい問題ですね。ライブペイントから行為を抜き取られた残骸でしょうか。ですが今回の場合は、継続したライブペイントによって、会期中ずっと作品が発展し続けるという、言うなればライブペイント・リサイクルといった体裁。これを作品に新たな生命を吹き込み続ける試みというならば理屈としては面白いですが、リサイクルが終わった後の作品がやはり残骸になるならば元の木阿弥。ライブペイントの継続が最終的にひとつの作品の完成を目指すものであるならば、それはライブペイントではなく、制作過程を示すドキュメンタリーにすぎません。ライブペイントを継続的に行うことの意味と、ライブペイントによって生まれた作品の位置づけ、このあたりの問題を作家たちがどのように考えているか、気になるところです。

運が良ければ作家がまさに描いている場面に出くわすことができるかもしれません。運が悪くとも、何度か訪れさえすれば作品が発展してゆく様子は窺うことができるでしょう。運の悪さに自信のある僕は、もちろん後者でした。

O:雑記 「Twitter」はじめました

時流というものと無縁であることは決して本意ではないので「Twitter」をはじめてみました。友人にそそのかされたのと、酔った勢いに負けたせいとも言えます。

しかしこれ、扱いが難しいですね。活用できる気がまったくしませんし、利用することをとくに正当化する理由も見あたりません。とりあえず当たり障りのないことを書いてみていますが、根本的に僕の性格とは合わない気がします。もちろん即時的なコミュニケーションツールとして、偏狭な僕には考えも及ばないような有用性があるのだろうと想像しますが、回転の遅い頭を駆動(空回り)させてなるべく丁寧に(回りくどく)言葉をひねり出したい僕としては、すでに古式となってしまった感すらあるブログという方法の方が、確信的に好ましいく思います。

とはいえせっかくですから、当面は運用してみることにします。わざわざここで報告するようなことではないのですが、そうでもしないとさっさと投げ出してしまいそうなので、この場を借りてあえてお耳汚しをば。

A:エントランスアートvol.91 引山絵里エキシビション「きせつをまつ」(STV北2条ビル)

エントランスアートvol.91 引山絵里エキシビション「きせつをまつ」(STV北2条ビル 2011/7/25-8/14)

蝦夷梅雨という気象用語らしきものがあるそうです。はじめて聞きました。そもそも北海道には梅雨がないというのが定説で、近年の梅雨らしき気象は地球温暖化の影響であると、まことしやかに囁かれていたのではなかったのかと。蝦夷梅雨なるものが本当にあるならば、これはもう道民にとって大きな衝撃です。ゴキブリがあまり見られないことと梅雨がないことが、長い冬を堪えねばならない道民の、心の慰めであったはずなのですから。とはいえ(とても好意的に考えると)本格的な夏が訪れるその前に、こうした緩衝を果たす気象があることもなかなか悪くないものです。季節のうつろいがゆるやかに感じられ、その流れに身を委ねる穏やかな心構えを持ち得るような気がします。

さて、「具象彫刻30人展」にも出品されている引山絵里さんの作品を拝見です。控えめで比較的正統な人物像を造られる方で、そのぶん彫美ではその個性を発揮できていなかったように見えましたが、こちらでは平面や抽象的なオブジェなども交えつつ、一歩先へ進もうという意欲が示されています。

基本は白い石膏の女性像ですが、その表情は象徴的です。感情を読み取ることができません。目に映るものをただただ見つめ、思考を放棄し、自我を最大限に後退させて、茫漠とした思いに浸る。そんな表情です。何かを期待しているわけでもなく何かを諦めているわけでもない、疑問もなく確信もない、孤独でもなく満たされてもいない。世界があって、ぽつりと自分が存在する。極めて素朴な自己定位が、そこには表されているように思われます。

ただし作家の関心は、直接的に造形する女性像よりもその視線の先にあるもの、つまり周囲を取り巻く世界の様相に向けられているようです。表題を思い出してみるならば、「きせつ」とその変化がそれに当たるというところでしょうか。部分的に彩色をするなどして詩情を漂わせようとするのも、そうした意識の表れでしょう。しかし、外界を変化させることが素朴な人物に何をもたらすか、あるいは外界をどのように変化させればよいのかは、作家自身もわかっていないに違いありません。それを表すかのように、女性像以外の抽象的なオブジェや、樹木を描いた平面はいささか迷走気味です。そもそも素朴な自己定位の背景には悟りか迷いのどちらかがあるものですから、引山さんの場合は後者なのでしょう。ひょっとしたら「きせつをまつ」というのは作家の心境なのかもしれません。季節の訪れとともに何かしらの変化があることを期待しているといったところでしょうか。

迷いというものは、具体的な打開策の模索を伴うことで、前進の原動力として働きます。その意味で、迷いと、迷いながらも見いだした新たな方法を(おそらくやや恥じらいながら)披瀝した作家の姿勢には好感を抱きます。願わくば迷いが拡散し、推進力を失うことのないように。

A:本郷新記念札幌彫刻美術館開館30周年記念 「具象彫刻30人展−北の作家たち−」

「具象彫刻30人展−北の作家たち−」(本郷新記念札幌彫刻美術館 2011/7/16-9/4)

今年の彫美の企画はなかなか魅力的です。以前記事に書いた「抽象彫刻30人展」のつづき。こんどは「具象彫刻30人展」がはじまりました。ひとりの作家の表現も多様で、ひとことで抽象、具象と片づけてしまうのには無理がある気もしますが、こうして彫刻界の状況を見えやすくしたり、鑑賞に際しての視座を提案することも美術館の努め。ここは素直にご提案に従って、具象の作品を見るのだという意気込みで拝見することにしてみましょう。もっとも実際には、具象という言葉でカテゴライズすることに疑問を抱かせる作品が少なからずあるでしょうし、それによって「具象とはなにか」といった問いが揺さぶられるような経験が待ち構えているのではないかと、あらかじめ期待してはいるのですが。

抽象の作品にくらべ、具象の作品を見る際には、文学作品を読むような深い読み込みが必要です。抽象の作品が、現象や感情から感覚的に抽出される色、かたち、空間性などを造形化しているがために、鑑賞者の感覚と直接的に響き合えるのに対して、具象の作品は、具体的な対象の姿を借り、比喩を駆使して指向する意味を造形化するため、鑑賞には比喩の理知的な理解が必須なのです。といったようなことを、ずっと昔の僕は考えていました。まったくハズレでもないかもしれませんが、優れた具象作品に出会ったときの、形象を飛び越えて意味に引き込まれるようなあの感覚を味わって以来、抽象も具象も等しく具体的で感覚的だと考えるようになりました。少なくともその想像の喚起力においては同等なのだと。しかし現実には、そこまでの威力をもった作品には、なかなか出会えないものです。そればかりか、具象の作品となると、いかにも何かの比喩であるかのような雰囲気満点で、さも鑑賞者の不理解に問題があるかといわんばかりの素振りを見せるから厄介です。小心者の僕は、作品に対し妙に申し訳ない気分になって、萎縮しながら展示室を廻ることもしばしばです。

その点、今回の作品たちは比較的雄弁で、肩身の狭い思いをほとんどすることなく拝見することができました。特に向川未桜さんの作品は気に入りました。ヒンドゥー教の神々にも似たエキゾチシズムが感じられ、人体とうねくる髪の毛が形づくるフォルムは周囲の空間を巻き込みながら、感情の揺動を伝えてくるかのようです。力強く、真に迫る作品でした。他にも面白いと思った作品は数点あったのですが、展示空間を一巡し、また向川さんの作品の前に戻ると、やはりこの印象に勝るものはないように思えました。こうした多数の作家の作品が集う企画では、一つでも好みの作品に出会えればアタリです。なので今回はアタリ。それでよしとします。

全体的に見ますと、出品作は大きく三つの傾向に分けられたように思えます。一つ目は、事物や人物を、それが何であるかわかる程度に写実的に、形づくろうとするもの。二つ目は、空想上の事物を造形化するもの。三つ目は、上記のいずれかの方法をとりつつ、作品の周辺にも付属物を配し、空間として提示しようとするものです。こうした傾向を見ますと、やはり「具象とはなにか」と問わずにはいられないわけです。写実的であることが具象ではない。現実的な事物を形づくることが具象ではない。物質として造形し得るものだけが具象ではない。少なくとも本展は、この三つの方向から具象を定義づけることを否定しているように思えます。では「具象とはなにか」ということになるのですが、おそらく企画者もこのことを深く考えてはいないでしょう。「抽象以外の方法」か、あるいは「なにかしらの具体的なものとして判別し得るもの」程度の意味でもって用いているというのが、正直なところではないでしょうか。せっかく美術館で開催するのですから少し深く掘り下げないと勿体ないとは思いますね。もっとも、「具象とはなにか」を問い直すことはあまりにも壮大な問題ですから、仕方のないことではあるのですが。

次々回、総括としての「抽象・具象彫刻60人展」が開催されます。60名もの作品があの建物の中に収まるのかと心配になりますが、おそらくうまくやるのでしょう。期待しつつ今回はこのへんで。

A:Plus1 Condensation(コンチネンタルギャラリー)

Plus1 Condensation(コンチネンタルギャラリー 2011/7/21-8/7)

最近にわかに仕事が忙しくなり、珍しく前回の記事から間が空いてしまいました。見逃した企画も多く残念ですが、それもまた巡り合わせ。躍起になってすべてを見ようとするよりも、たまたま出会えたものとの繋がりを大切にするぐらいの方が僕の性には合っています。ブログは少々ペースダウンすることになるかもしれませんが、細々と続けてゆきますので、どうぞよろしくお願いします。

さて、とても久しぶりに「コンチネンタルギャラリー」さんにお邪魔しました。前回行ったのがいつだったか、思い出せないくらいに久しぶりです。新進気鋭の作家達を後押しする良質な企画を組む、札幌では有数のギャラリーと言っていいでしょう。ビルの入口から地下のギャラリーに至るまでに、やや距離を感じさせることが玉にきず。テナントビルの中にギャラリーがあることは珍しくはありませんが、なんとなく足を踏み入れるのがためらわれます。

ギャラリースペースは、よくこれだけの面積を確保したものだと感心するほど十分な広さ。扉をくぐり、右手の障壁をぐるりと迂回すると、立体作品の展示も余裕でこなす贅沢な空間がひらけます。そのせいでしょうか、こちらで拝見する作品には、立体や半立体のものが多いような気がします。偶然とは思うのですが、今回拝見した作品も、立体のものや、平面から立体への展開を目指したようなものが大半でした。以下、作品の印象を書いてゆきます。作品名はほとんど失念してしまいましたが・・・

ダム・ダン・ライさん:多数のアーモンド型のものが密集したイメージを基本として、それを平面と立体で表しています。壁面には正方形のキャンバスの平面作品を掛け、床には細長い鏡を置き、その上に木の立体作品を設置していました。鏡の上に立体を置くというのが面白いですね。平面と立体を並べて形態を対照的に示すのと同時に、立体を鏡に映すことで平面へと変換して形態の差異をぼやけさせもする仕掛けです。アーモンド型の連鎖に誘われるがごとく、平面から立体へ、立体から平面へと、思考が作品の中をぐるぐると巡ります。鏡の上に立体を直に置くことがよかったのかどうかという点だけ、要検討です。

川上りえさん:いつもどおりの鉄の造形です。壁と接する部分は「!」のような形が鉄板で立体的に、その下端からは直角にのびる「!」の影の輪郭が細い棒鋼を組み合わせて形づくられています。立体の作家のなかには、照明を利用して壁面に落ちる影を作品に取り入れることをする方がよくいらっしゃいますが、川上さんの作品は影を壁から引きはがして、立体的に造形してしまおうという試みです。なかなか大胆で斬新な方法だと感心しました。ただ立体的に造形してしまうことで、影の雄弁さが失われるのは残念です。影は捉えようがないものであるがゆえに魅力的なのだということが、よくわかりました。

坂東宏哉さん:壁面に大判の平面と、床に長短さまざまな土筆状の突起物を併置した作品です。いずれも美しい青系の絵具で彩色され、濃淡や彩度の差が複雑な表情を生み出しています。ですが、とても難解な作品です。たしか「再生」という題名だったかと思いますが、何が再生しているのか、あるいは何を再生しようとしているのか、意図が伝わってきません。お手上げです。

藤本和彦さん:黄色いワックスを固めてつくった直方体が多数、全体として見れば菱形を形づくるように壁に貼られています。ちょうど壁面の角をまたぐように設置されているのは、そこに三角形の空間を出現させようという意図でしょうか。しかし、こちらも難解ですね。題名は「卯の刻」でした(難解な作品ほど題名に助けを求めてしまいますから、皮肉にもちゃんと覚えているものです)。「卯の刻」は午前六時ですから、ひょっとしたら朝日のイメージなのでしょうか。そう考えてみれば、大きな菱形は揺れる海面に写る太陽のように見えなくもありません。しかしまったく自信がないです。

齋藤周さん:以前「テンポラリースペース」で拝見したものの小品版です。特に言及することはありません。ただ画面が小さいと共感が弱まりますね。引き込まれるような感覚がなくなります。どの大きさで作るかといったことも、やはり制作上の大きな問題なのだということを、しみじみと思います。

千代明さん:円形の棒鋼を組み合わせて作られた球形の外郭のなかに、白い輝きを放つ光源を核として、虹色に染められた紐が放射状にひろがります。素直に面白いと言える作品です。虹色の紐が光線の明喩であるだろうということはわかりますが、それが結びつけられている円形をどう理解すればよいのか、悩ましいところです。

谷口明志さん:壁面に設置された複数の黒い板を組み合わせた平面の上を、白い筆跡のシンプルなドローイングが走ります。平面は床と接する部分で直角に折れ曲がり、そのまま床面へと張り出しいるのですが、ドローイングは床に近い部分から白い針金に接続されることで空間を飛躍して、床面へと至り、再び白い筆跡に接続されます。もっとも平面的であるはずのものを平面から引きはがしてみせるという方法は、先に見た川上さんの作品とも共通するものがあります。ただこちらの方がより恣意的でしょうか。ちょっといやらしさを感じもします。

「Plus1」展、今回のテーマは「Condensation(凝縮)」ということで、作品同士の高密度の響き合いによって空間へとアプローチするといったようなことが、これまた難解な言い回しによって宣言されています。空間へのアプローチという点に関しては、個々の作品において様々な形での試みを見て取ることができ、概ね楽しませていただきました。