A:河合春香・中村美沙子「つつまれる」たましい、こころ、からだ、うまれゆくのはいまのいろ。(CAI02)

河合春香・中村美沙子「つつまれる」たましい、こころ、からだ、うまれゆくのはいまのいろ。(CAI02 raum2/3 2011/7/30-8/9)

いままでひっそりと書いてきたこのブログ。うっかりTwitterを始めてしまったせいで、にわかに反響をいただいているようです。小心者の僕は、とたんに緊張感をおぼえ、書く手が鈍り気味です。ですが実のところ、ブログを始めた当初から緊張しっぱなしではあります。作品を前にしても何の言葉も浮かばなかったらどうしようという、杞憂と笑われてしまいそうな、でも確かな不安があって、だからこうして毎度の書き始めはとても緊張します。書いた文章の内容を批判されることは平気です。形にできないことが恐いのです。つくづく自分は物書きには向いていないと思います。

表現行為をされる方、とりわけ身体表現、音楽、そしてライブペイントなどを即興でされる作家の方々は、そのような不安に駆られることはないのだろうかと、素朴に疑問に思います。観客の視線を一身に集めるその瞬間に、足の運びが、旋律が、筆の動きが、止まってしまうかもしれないと恐怖を覚えることはないのかと。

こんな書き出しをしてみたのは、今回拝見した河合春香さんと中村美沙子さんの共同展での作品が、まさにそのライブペイントであったためです。

会場となっている「CAI02」さんの「raum2/3」は、二面の白い壁が向かい合う細長い作りの空間です。会場に入ると、右側の壁には河合さんが、左側の壁には中村さんが、それぞれ壁面をめいっぱいに使って作品を描いています。壁面には数カ所に小さなキャンバスが貼り付けてあって、ペイントに立体的な変化をつける工夫が施されているほか、所々に自作の缶バッジや髪ゴムなども作品の一部として付け加えられています。

作風について述べてみますと、河合さんの方は、ピンクや黄色といったビビッドな色を用い、奔放に筆を振るって軌跡の重なりや絵の具のたれを生じさせる、無作為的な抽象の作品。一方中村さんは、渋めの中間色を用い、水墨的なタッチで竹林を描き、さらにキャラクター化された鳥やウサギなどの動物を多数描く具象的な作品と言えます。加えて言えば、河合さんの作品は、いかにも手慣れているといった印象です。かすれ、にじみ、たれといった偶然的な効果を楽しみながら、そしてときにドットを打って理性的に画面を整えるようなこともしながら画面で遊ぶことを、制作の方法としてしっかりと確立されているのだと思います。それに対し中村さんは、こつこつと積み上げるようにモチーフを描き、一見物語性を感じさせはするものの、その実無意味な連鎖を生じさせて画面を埋めてゆく方法です。方法についての確信めいたものは感じられず、それが不安定な、不穏な雰囲気を醸し出しています。河合さんの軽妙さと、中村さんのどんよりとした不穏さが好対照を成している、と言いたいところですが、全体の雰囲気は中村さん寄りで、やや重く感じられます。

ライブペイントによって生まれた作品をどう呼ぶかは難しい問題ですね。ライブペイントから行為を抜き取られた残骸でしょうか。ですが今回の場合は、継続したライブペイントによって、会期中ずっと作品が発展し続けるという、言うなればライブペイント・リサイクルといった体裁。これを作品に新たな生命を吹き込み続ける試みというならば理屈としては面白いですが、リサイクルが終わった後の作品がやはり残骸になるならば元の木阿弥。ライブペイントの継続が最終的にひとつの作品の完成を目指すものであるならば、それはライブペイントではなく、制作過程を示すドキュメンタリーにすぎません。ライブペイントを継続的に行うことの意味と、ライブペイントによって生まれた作品の位置づけ、このあたりの問題を作家たちがどのように考えているか、気になるところです。

運が良ければ作家がまさに描いている場面に出くわすことができるかもしれません。運が悪くとも、何度か訪れさえすれば作品が発展してゆく様子は窺うことができるでしょう。運の悪さに自信のある僕は、もちろん後者でした。