A:本郷新記念札幌彫刻美術館開館30周年記念 「具象彫刻30人展−北の作家たち−」

「具象彫刻30人展−北の作家たち−」(本郷新記念札幌彫刻美術館 2011/7/16-9/4)

今年の彫美の企画はなかなか魅力的です。以前記事に書いた「抽象彫刻30人展」のつづき。こんどは「具象彫刻30人展」がはじまりました。ひとりの作家の表現も多様で、ひとことで抽象、具象と片づけてしまうのには無理がある気もしますが、こうして彫刻界の状況を見えやすくしたり、鑑賞に際しての視座を提案することも美術館の努め。ここは素直にご提案に従って、具象の作品を見るのだという意気込みで拝見することにしてみましょう。もっとも実際には、具象という言葉でカテゴライズすることに疑問を抱かせる作品が少なからずあるでしょうし、それによって「具象とはなにか」といった問いが揺さぶられるような経験が待ち構えているのではないかと、あらかじめ期待してはいるのですが。

抽象の作品にくらべ、具象の作品を見る際には、文学作品を読むような深い読み込みが必要です。抽象の作品が、現象や感情から感覚的に抽出される色、かたち、空間性などを造形化しているがために、鑑賞者の感覚と直接的に響き合えるのに対して、具象の作品は、具体的な対象の姿を借り、比喩を駆使して指向する意味を造形化するため、鑑賞には比喩の理知的な理解が必須なのです。といったようなことを、ずっと昔の僕は考えていました。まったくハズレでもないかもしれませんが、優れた具象作品に出会ったときの、形象を飛び越えて意味に引き込まれるようなあの感覚を味わって以来、抽象も具象も等しく具体的で感覚的だと考えるようになりました。少なくともその想像の喚起力においては同等なのだと。しかし現実には、そこまでの威力をもった作品には、なかなか出会えないものです。そればかりか、具象の作品となると、いかにも何かの比喩であるかのような雰囲気満点で、さも鑑賞者の不理解に問題があるかといわんばかりの素振りを見せるから厄介です。小心者の僕は、作品に対し妙に申し訳ない気分になって、萎縮しながら展示室を廻ることもしばしばです。

その点、今回の作品たちは比較的雄弁で、肩身の狭い思いをほとんどすることなく拝見することができました。特に向川未桜さんの作品は気に入りました。ヒンドゥー教の神々にも似たエキゾチシズムが感じられ、人体とうねくる髪の毛が形づくるフォルムは周囲の空間を巻き込みながら、感情の揺動を伝えてくるかのようです。力強く、真に迫る作品でした。他にも面白いと思った作品は数点あったのですが、展示空間を一巡し、また向川さんの作品の前に戻ると、やはりこの印象に勝るものはないように思えました。こうした多数の作家の作品が集う企画では、一つでも好みの作品に出会えればアタリです。なので今回はアタリ。それでよしとします。

全体的に見ますと、出品作は大きく三つの傾向に分けられたように思えます。一つ目は、事物や人物を、それが何であるかわかる程度に写実的に、形づくろうとするもの。二つ目は、空想上の事物を造形化するもの。三つ目は、上記のいずれかの方法をとりつつ、作品の周辺にも付属物を配し、空間として提示しようとするものです。こうした傾向を見ますと、やはり「具象とはなにか」と問わずにはいられないわけです。写実的であることが具象ではない。現実的な事物を形づくることが具象ではない。物質として造形し得るものだけが具象ではない。少なくとも本展は、この三つの方向から具象を定義づけることを否定しているように思えます。では「具象とはなにか」ということになるのですが、おそらく企画者もこのことを深く考えてはいないでしょう。「抽象以外の方法」か、あるいは「なにかしらの具体的なものとして判別し得るもの」程度の意味でもって用いているというのが、正直なところではないでしょうか。せっかく美術館で開催するのですから少し深く掘り下げないと勿体ないとは思いますね。もっとも、「具象とはなにか」を問い直すことはあまりにも壮大な問題ですから、仕方のないことではあるのですが。

次々回、総括としての「抽象・具象彫刻60人展」が開催されます。60名もの作品があの建物の中に収まるのかと心配になりますが、おそらくうまくやるのでしょう。期待しつつ今回はこのへんで。