A:エントランスアートvol.91 引山絵里エキシビション「きせつをまつ」(STV北2条ビル)

エントランスアートvol.91 引山絵里エキシビション「きせつをまつ」(STV北2条ビル 2011/7/25-8/14)

蝦夷梅雨という気象用語らしきものがあるそうです。はじめて聞きました。そもそも北海道には梅雨がないというのが定説で、近年の梅雨らしき気象は地球温暖化の影響であると、まことしやかに囁かれていたのではなかったのかと。蝦夷梅雨なるものが本当にあるならば、これはもう道民にとって大きな衝撃です。ゴキブリがあまり見られないことと梅雨がないことが、長い冬を堪えねばならない道民の、心の慰めであったはずなのですから。とはいえ(とても好意的に考えると)本格的な夏が訪れるその前に、こうした緩衝を果たす気象があることもなかなか悪くないものです。季節のうつろいがゆるやかに感じられ、その流れに身を委ねる穏やかな心構えを持ち得るような気がします。

さて、「具象彫刻30人展」にも出品されている引山絵里さんの作品を拝見です。控えめで比較的正統な人物像を造られる方で、そのぶん彫美ではその個性を発揮できていなかったように見えましたが、こちらでは平面や抽象的なオブジェなども交えつつ、一歩先へ進もうという意欲が示されています。

基本は白い石膏の女性像ですが、その表情は象徴的です。感情を読み取ることができません。目に映るものをただただ見つめ、思考を放棄し、自我を最大限に後退させて、茫漠とした思いに浸る。そんな表情です。何かを期待しているわけでもなく何かを諦めているわけでもない、疑問もなく確信もない、孤独でもなく満たされてもいない。世界があって、ぽつりと自分が存在する。極めて素朴な自己定位が、そこには表されているように思われます。

ただし作家の関心は、直接的に造形する女性像よりもその視線の先にあるもの、つまり周囲を取り巻く世界の様相に向けられているようです。表題を思い出してみるならば、「きせつ」とその変化がそれに当たるというところでしょうか。部分的に彩色をするなどして詩情を漂わせようとするのも、そうした意識の表れでしょう。しかし、外界を変化させることが素朴な人物に何をもたらすか、あるいは外界をどのように変化させればよいのかは、作家自身もわかっていないに違いありません。それを表すかのように、女性像以外の抽象的なオブジェや、樹木を描いた平面はいささか迷走気味です。そもそも素朴な自己定位の背景には悟りか迷いのどちらかがあるものですから、引山さんの場合は後者なのでしょう。ひょっとしたら「きせつをまつ」というのは作家の心境なのかもしれません。季節の訪れとともに何かしらの変化があることを期待しているといったところでしょうか。

迷いというものは、具体的な打開策の模索を伴うことで、前進の原動力として働きます。その意味で、迷いと、迷いながらも見いだした新たな方法を(おそらくやや恥じらいながら)披瀝した作家の姿勢には好感を抱きます。願わくば迷いが拡散し、推進力を失うことのないように。