A:上遠野敏個展「ネ・申・イ・ム・光景」(CAI02)

上遠野敏個展「ネ・申・イ・ム・光景」(CAI02 raum1 2011/7/23-8/27)

もう何年も前に、芸術の森美術館に友人と行ったときのことを思い出しました。ちょうど「北の創造者たち 虚実皮膜」という展覧会が開催されていて、当時の僕にとっては何やらわけのわからない、キャプションを一生懸命に読まなければどう接してよいかもわからない、とてもコンセプチュアルな作品が数多く展示されていました。いわゆる現代アートと呼ばれるものと接した、初めてに近い経験だったかと思います。そのときの記憶はほとんど薄れてしまっていましたが、その一部を呼び起こされました。「虚実皮膜」に出品されていた上遠野さんとの、期せずしての再会です。(会期のチェックをすっかり忘れていて、「CAI02」へお邪魔したらたまたま開催中だっただけというのは内緒です)

展示空間は異様な空気に満たされています。原因は、入口の方を向くように置かれた数躯の仏様(お地蔵様?)に他なりません。これには驚きました。これだけの仕掛けで、まるで深山霊域に迷い込んだような気分です。思わず手を合わせそうになります。お賽銭を置いてゆかれた方がいるのも納得です。壁には大きく引き延ばされた写真が一列に、カラーものとモノクロのものが織り交ぜられながら、規則正しく飾られています。壁に沿って一巡しようとすると、ちょっと仏様に進路を遮られることがあるのはご愛敬でしょう。

写真は、霊験あらたかな場で撮影されたと思われるものが数点ありますが、大半は日本各地の風景を背景として、画面のほぼど真ん中にミニチュアの社(=神の象徴)か、小さな仏様の座像を設置して撮影されたもののです。ご神体と思しき巨石、冬の洞爺湖、犬島の工場跡など、雑多な風景のなかに象徴を置いて撮影されたこれらの写真は、おそらくは作家が神性・仏性を感じる場において、それをさらに顕在化させるといった意図があるのだと思われます。ただ、この方法はずいぶん強引ですし、風景が本来もつ雄弁さに蓋をしてまですることなのかと、その効果にも疑問を持ちます。もしかすると他の意図があるのかもしれませんが、僕には読み取ることが困難でした。

背景の整理への配慮は感じるものの、基本的には単純な構図と単純な方法による写真の連なり。その様子を見ると、あるいは作家は、これらの写真を、それこそベッヒャー夫妻の仕事のように愚直に集積した先に、何か特別な意味が立ち上がってくるのを期待しているようにも思えます。それこそ神や仏に祈るような気持ちで、と結べばうまく落ちもつくでしょうか。

不意に記憶が蘇る経験をしたのはよいものの、八年前からほとんど成長していない自分に愕然としました。作品を読むということに必要な能力とはなんなのか、どうすれば身につくのか、どなたかに教えていただきたいものです。