A:一美里+毛内やすはる展 -Fragility- (TO OV cafe)

一美里+毛内やすはる展 -Fragility- (TO OV cafe 2012/6/12ー24)

当ブログがはじまってから、気がつけばとっくに1年が過ぎていました。継続すれば何らか意味を見いだすことができるかもしれないので、淡い期待を抱きつつ続けてゆきたいと思うのですが、ほとんど休止状態という今のありさまではどうにもならないのは明白です。とはいえ無理矢理気持ちを奮い立たせて書こうとしても、良い題材に出会えず落胆し、筆を置くことがしばしばあります。なかなか思うようにいかないですね。もっとこう、日々生み出される作品たちや、活動を続ける作家たちと生産的な関係を築きたいと思うのですが、はてさて。

そんなことを考えている折に、なんと、作家の方から展覧会のご案内をいただくということがありました。このブログを読んでくださっている方からは、これまでも何度かご投稿いただくなどしてきましたが、休止状態が続く中でのご案内ということもあって、軽く感動してしまいました。というわけで、せっかくですのでTO OV cafeさんへお邪魔してきました。

二人展ということで、一美里さんの人物画と、毛内さんの立体作品の共演です。一美里さんの作品は、白いキャンバスの上に紫色の絵の具を用いて、ゆらゆらした朧気なタッチで描かれた女性像です。「現代に生きる「女性」の「不安定さ」」を表そうとしているという説明書きはどうとでも受け止めることができますが、あえて深読みをしつつ作品を見るならば、精神や感情の揺らぎによって生じる内面の「不安定さ」と、それに由来する自己定位の「不安定さ」のふたつほどの意味は込めているだろうと推察されます。それはそれで結構です。ただ作中の女性たちの描写は、それらの「不安定さ」を訴えるには明らかに甘いですね。女性たちのやや憂いを帯びたような表情は、モデルがポーズを決めただけのように固く張りつき感情のありようを伝えず、朧気な輪郭も朧気であることに自足しているかのよう。簡潔に言えば形式的なのです。作品のファイルにはご自身による解説が書かれていましたが、「〜を表している」というような書き方が多いのも気になりました。気持ちはわかります。自分がどういった工夫をしているのか、モチーフや色彩などにどのような意味を込めているのか、説明したくなるものです。ただ鑑賞者が、少なくとも私が、作品を見て知りたいと思うことは、作者の意図やテクニックの問題などではなくて、作品として具現化された根底的な意識や疑問です。一美里さんについて言えば、なぜ「不安定」な「女性」を描くのかということです。それに対する答えを、作品からも言葉からも得ることはできませんでした。大変残念でした。作品のファイルを拝見するかぎり、技術的には年々向上されているように見受けましたので、どうぞ作品に込めるものを間違わずに、続けていただきたいと思います。

他方、毛内さんの作品は、すでに見慣れた感もある抽象的な立体造形です。「見る者の「記憶」を触発する」と言われてみれば、なるほど、個々の造形は植物の種子や昆虫の体軀、雨粒のはじける様子など、記憶の所々にあるものたちをそこはかとなく想起させ、なくもないですね。自由な見方ができるという点においては大変面白く、しかしながら、「記憶」云々の説明がいかにも後付けっぽくて、評価が難しいところです。(この文章を執筆する直前に、「JRタワー・アートプラネッツ2012 楽しい現代美術入門 アルタイルの庭」を拝見し、そこにも毛内さんはほぼ同じものを出品されていたため、とくに本作の意味について懐疑的になっているせいでもありますが)とりあえず細かい点については保留ということにしておきます。あしからず。

今回はご案内をいただいたにもかかわらず、口悪く書いてしまいました。ですがこれがこのブログのスタンスですので、どうぞご了承ください。そしてご理解ご許容いただけるならば、今後ともご案内いただきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

A:清武昌 個展 ーしじまの余韻にー(さいとうGallery)

清武昌個展ーしじまの余韻にー(さいとうGallery 2012/2/21ー26)

なんとほぼ半年ぶりの更新です。本来ならば年明け早々に再開するはずだったのですが、別の趣味にかまけていたせいで、すっかり機を逸してしまいました。しかしカウンターもなく、アクセス解析もしていないため、読者がいるのかどうかもわからないこのブログ。この長い休止について、いったい誰に謝ればよいのか見当もつきません。というわけであくまでも自省に則りつつ、頼山陽的な意味で粛々と、本年も札幌の美術とラーメンについて独断と偏見たっぷりに綴ってゆきたいと思います。

さて、当ブログに初登場なのが驚きの老舗ギャラリー「さいとうGallery」さんにお邪魔しました。札幌の繁華街のど真ん中。一階にある日産ギャラリーではしばしば日産の栄光を築き上げてきた歴史的な名車が展示され、美しいコンパニオンの女性たちがその解説などをしています。近くを通るだけで心が浮き立ちます。

それはさておき、清水昌さんの個展を拝見です。若いながら立派な経歴をお持ちですね。作品もこの個展のために描いたものもあるということで、制作意欲も旺盛な様子。壁画のような長大な作品がひとつと、100号ぐらいの作品が3、4点、あと小作品が10点弱ほど飾られていました。

作風を端的に表すとするならば抽象ということになるのでしょうが、その原型、つまり文字通り画面を構成する主要素の原型は、人体や果実といった具象的な物です。それらは固有の色をはぎ取られ、かすかに形を留めながら、画面にシミのように広がる色斑と同一化するように描かれています。色斑は人体や果実が画面に落とす影のようでもあり、あるいは何か圧倒的な力の奔流に生まれる一瞬の空隙のようでもあります。人体と色斑が重なり合う部分の描写は秀逸で、人体が人体としてのあるべき姿を語り始めようとする瞬間に、その権利を剥奪するような暴力性を感じさせます。

色彩や構成もいいですね。暖色と寒色のバランスは適当ですし、奔放に走らせた線が間延びしがちな空間をそつなく埋めています。にじみやかすれなど偶然性を活かした技法もふんだんに盛り込み、シュールレアリスム的な画面からほどよく説明的な要素を排除して抽象化しています。なかなか巧みだと思います。そして冷静です。

では作品が、全体としての何を伝えようとしているのかと考えると、これがなかなか難しいです。随所に具象的な原型が目に付くために、つい記号論的に読み解きたい欲求に駆られます。作者自身もそうした読み解きを退けようとしているのかと言われれば、そうでもないような気がします。退けようとしているとするには、あまりにも思わせぶりですから。ならばと強引に意味を読み取ろうと試みてみると、なぜ人体の一部が描かれているのか、なぜリンゴが描かれているのかといった問いが虚しく響きます。もし、意味があるようでないといったところを狙っているのだとするなら、僕は見事に術中にはまっているわけですが、それならそれでなぜそのような狙いを持つのかがまったくわかりません。はてさて。

言表するかどうかはともかくとして、やはり作品には明確な制作意図があって欲しいものです。あるいは、作品としてでしか表せないような強い想いが込められていてほしいものです。そうすることが鑑賞者に対して果たすべき作家のせめてもの責任でしょうし、そうして必然性をもって生まれた作品でなければ見ても面白くない、何も感じない、何も伝わって来ない。その点、今回拝見した作品は、やや弱いかなという印象です。

わかったふりをして変な助言はしないでおきます。若い方ですので、苦悶しつつ、どうぞ引き続き頑張ってください。

R:麺や亀陣「鶏白湯塩ラーメン」を食す

麺や亀陣「鶏白湯塩ラーメン」

なんと、二ヶ月ぶりの「R」の記事です。この夏の暑さのせいで胃腸が弱っていたとはいえ、こんなことではいけません。しかしいざラーメンを食べに行こうと思っても、なかなか食指をそそるお店の情報が見当たらないのも事実(単に情報に疎いだけという話もありますが)。何の手がかりもなしに初めてのお店に飛び込む勇気もなく、二の足を踏んでいていたという事情もあります。

ありがたいことに今回は、知人からの情報提供がありました。昨年末に開店したばかりで、なかなかの実力店とのこと。早速お邪魔しました。

亀陣さんの謳い文句は「化学調味料無添加」のスープと「自家製麺」。メニューの裏には健康志向、自然志向への傾倒を示すコンセプチュアルな文章が綴られていて、店主の生真面目さがひしひしと伝わってきます。しかし問題はあくまでもラーメンの出来。三種類の基本メニュー(鶏清湯、鶏白湯、つけ麺)に加え、限定メニューの担々麺が用意されていますが、ここは好物の鶏白湯の塩で様子見です。

見た目は極めて普通のラーメン。白湯の塩のわりにはスープがやや茶色味を帯びているかな、といった程度です。ぎらぎらした脂が浮いているわけでもなく、具や薬味に凝っているわけでもありません。正当派と言ってよいでしょう。

スープをひとくち。白湯なので鶏ガラに違いないのですが、鶏の旨味に加えて魚の旨味が強く感じられます。茶色味は魚の出汁(和出汁ということですが魚の種類は明かされていません)を加えているせいのようです。鶏と魚の二重奏で、しっかりとコクがあります。塩分も適度。鶏ガラからコラーゲンがたっぷりと出ていて、舌にねっとりとからみつく感触があります。

麺はまるで博多系のラーメンのような細麺です。ただし博多系が概して丸麺であるのに対し、こちらは角麺。舌の上でコロコロと転がる感触が絶品です。一本一本の離れがよく食感も上々。噛むと最初はムチッとした弾力を感じさせ、やがてホロリと噛み切れます。この麺を食べると、博多系の麺のあのブツリと切れる感触がいかに不自然であるか思い知らされるでしょう。また鼻腔につんとくるかん水の臭いも最小限に抑えられていて不快感はありません。スープの味の邪魔をせず、とてもよく馴染んでいます。素晴らしいと思います。

具はチャーシュー(豚と鶏の二種)とメンマ、キクラゲ、ネギ(小口の細ネギと白髪ネギ)です。いずれもスープの味を濁らせるような強い味付けは避けられています。徹底しています。豚のチャーシューは下茹でした豚肉に軽く焼き目をつけたものです。厚めに切られ、しっかりとした食感と肉の味が残されています。ややぱさつくのが気になりますが、許容範囲でしょう。珍しい鶏のチャーシューも、やはり下茹でして焼き目をつけたもの。ほのかにウイキョウの香りをつけた、中華風の仕上げです。しばしばスープの邪魔者となるメンマもほどよい味つけで、食感もしっかりとしている丁寧な出来。細切りにされてキクラゲは、味つけがされていないので最初は特に感心しなかったのですが、麺と絡まると絶妙な食感となります。やや過剰に思えた白髪ネギも同様です。なるほどキクラゲと白髪ネギは、麺のための具材なのですね。これには感嘆しました。

全体的に見ると、味の面では突出したものはないけれど、細部までよく考えられていてバランスがよく、美味しく食べさせるための工夫も凝らさている、真面目で非常に完成度の高いラーメンだと思いました。特に麺と具の取り合わせは絶妙です。あえて難点を挙げるならば、底の方がスープの味が濃いということと、底に魚粉が溜まっていて食べ進めるうちに舌触りがザラザラとしてくることでしょうか。つけ麺ブーム以来、魚粉の使われ方が安易な気がしますので、ここをなんとか解消していただきたいところです。

どうやら看板メニューであるらしい「清湯」の方も、激しく気になります。近いうちにこちらも試してみることにします。

麺や亀陣 北海道札幌市東区北47条東8丁目1-1 47ビル 1F

A:丹羽シゲユキ展ーHEAVENー(ギャラリー創)

丹羽シゲユキ展ーHEAVENー(ギャラリー創 2011/8/24-9/4)

休みの日を利用して、気になっていた四つの展覧会を見ました。そのうちのひとつ、「ギャラリー創」で開催中の丹羽さんの個展について書きます。

丹羽さんは札幌出身の方ですが、京都精華大学で学ばれたという経歴を聞くと、それだけでなにやら雅で華やかなものを作られているのではとの先入観をもちます。まさに京都マジック。いや、ここは作品に敬意を表して「はんなり」したものと言うべきでした。すなわち「花なり」と。

会場には陶器で作られた蓮華のオブジェが並べられています(一部、カップのような器の作品もあり)。大半がマットな白い釉薬で色づけがされていて、非常に上品な印象です。この白い色づけが、作品のディテールやフォルムへと意識を誘導するためのものであることは間違いないでしょう。蓮華は艶めかしい曲面と鋭利な縁の花弁がひしめき合うように形成されていて、その形状が生む陰影が白い陶体に落ちて、作品の造形美をいっそう際立てるのです。

ディスプレイの方法はやや演出過剰。濃い茶色の木枠の上面に透明なアクリルをはめ、その上に作品を置いて浮遊感を演出しています。木枠の内側の底面、すなわちアクリルから透けて見える対面はピンクや黄緑色に塗られ、作品の白色を鮮やかに浮かび上がらせていますが、ピンクや緑色の反射が中途半端であるのと、アクリルに反射する光が邪魔になるのとで、いまいちでした。どうせならライトボックスなどを用意して、透過光で演出したほうがよかったのではと、余計なことを考えます。

蓮華をモチーフにしつつも、無駄にその有機性にすり寄らない姿勢は好ましく思いました。あくまでも陶を出発点として、陶の文法でもって事物を解釈してゆくという一貫した意志の表れなのだと思います。ただし蓮華というモチーフへを採用した動機が、単にディテールやフォルムへの関心のみだったとするならば寂しいですね。「HEAVEN」という副題にも後づけの響きを感じます。

とはいえ、一部の作品には、花弁の内側に蓮の種子のような模様が描かれているものがあり、これをモチーフへの視線の深化ととらえるならば、展望は明るいのかもしれません。

追記:このあと、「ギャラリー門馬」と「ギャラリーレタラ」へもゆきました。杉吉貢さんの曼珠沙華彼岸花)の作品はなかなか新鮮な体験でしたが、その他は特筆するところがありませんでした。

A:釜谷美由紀展 -紐帯- (ギャラリーミヤシタ)

釜谷美由紀展 -紐帯- (ギャラリーミヤシタ 2011/8/25-9/11)

ことあるごとに異常気象だ、温暖化だと騒がれる昨今。今年はその騒動がぴたりとあてはまるような夏でした。けれどお盆を過ぎてみれば、秋の気配が感じられるようになるのはいつもの通り。暑い日はまだまだあったとしても、はや鈴虫が鳴いていたり(!)、雪虫が飛んでいたり(!!)して、夏も終わったのだという実感が日ごとに増してゆきます。

アートの世界を眺めてみれば、不況のあおりと震災の影響をまともに受けて中止された展覧会があったりはしたものの、学芸員ソフトパワーを発揮して意欲的で意義深い企画を続々と生み出しているし、ヨコハマトリエンナーレ2011をはじめ各地の芸術祭のプレ企画なども目白押しで、むしろこれからますます熱くなってくる気配さえ感じられます。

札幌の状況はと言えば、相変わらずビエンナーレ関係が迷走していて沈鬱な空気を漂わせているものの、どのギャラリーにおいても絶え間なく展覧会が開催されている様子を見るかぎり決して冷えてはいない。「ギャラリー門馬」や「ギャラリー創」は、道内外を問わず先鋭的な仕事をする作家たちを積極的に紹介し続けているし、その他でも地元作家の円熟や新進ぶりを楽しむことができるます。煮え切らないと言えなくもないけれど、ほどよく温かい状況であると好意的にとらえておくことにしましょう。

「ギャラリーミヤシタ」で拝見した釜谷美由紀さんの個展は、まさにほどよく温かいものでした。カラーとモノクロが混在した写真の展示は、いかに鑑賞者を飽かせないかという情熱が傾けられていて、独特の熱を帯びています。

例えば横浜、旭川、沖縄といった撮影地を書いた紙を小振りの石に貼って、床に置いておくキャプションの見せ方、あるいはインスタレーションのように渦巻き状に石を配列して、中心に2Lサイズほどの写真を置くような見せ方に、それが表れています。壁に飾られている写真の配置にも工夫が凝らされており、あるものは整然と並べて飾られ、またあるものは厚みも縦横比も異なる木枠に貼り付けられた写真が一見ランダムに組み合わされてひとつのオブジェを成すように飾られています。作家は旺盛な実験精神の持ち主であり、エンターティナーのようです。

反面そうした工夫が、個々の写真から意味なり、物語なりを読み取ることの妨げになっていることは否めません。しかしながら、組み合わされた個々の写真をじっくりと見れば意味や物語が浮かび上がってくるのかと問われれば、そうでもなさそうです。むしろはじめから、意味や物語などを意識して撮られた写真ではないと理解するのがよいのかもしれません。

展覧会の副題には「紐帯」とあり、何かと何かの結びつきが暗示されてはいますが、やや過剰な演出と、やや漠然としすぎた内容の写真たちを前にしては、このコンセプトを導き出した理論が錯綜しているであろうことが想像されるだけで、具体的に何と何が結びついているのかということについて想起するところまでは至りませんでした。

展示に凝らされた工夫は評価したいと思います。実際見ていて、最後まで飽きませんでした。願わくばその工夫が、写真の内容と合致するものであってほしいです。互いが一人歩きし、平行線で終わってしまっては、結果として何も語らしめることができません。

A:JAMANI個展(ギャラリー犬養)

JAMANI個展(ギャラリー犬養 2011/8/7-22)

ススキノから国道三六号線を西に向かい、豊平川を渡って二つ目の信号を左へ。ビルの隙間から、おそらくこの辺りの土地が開拓されたのとほぼ同時に建てられたと思われる、えもいわれぬ雰囲気をまとった建物が姿を現します(入口へといたる小径に辿りつくためには、さらにぐるっと廻る必要があります)。この八月にオープンしたばかりの「ギャラリー犬養」さんです。先月あたりからちらほらと噂を耳にするようになり、方々のブログなどで記事を見るにつれ、とても気になっていました。築一〇〇年の古民家を改装してギャラリーにする、それを聞くだけで心が躍ります。

いざ建物の前に立ってみると、なるほど期待を裏切らない外観。古びてはいるけれど健全で、確かに生きた建物であることがわかります。中に入れば、塗り直された白壁が目にまぶしいネオ・クラシックな空間です。柱などの木材が帯びる古色に、いちいち琴線をかき鳴らされます。一階はカフェと、人形(?)や小物の展示スペースのようになっています(何が展示作品で何がこの家にそもそもあったものなのか、判別が難しいです)。二階はギャラリースペース。ちょうどこけらおとしとなる、JAMANIさんの個展が開催されていました。ちなみにカフェに置かれている椅子やテーブルはこのJAMANIさんの作とのこと。古びた木材と細い鉄筋を組み合わせた、ふた癖ぐらいあるデザインです。それほど広くないカフェスペースが狭く感じられないのは、この細い鉄筋の効果でしょう。さすが、場をよくご覧になっていますね。感心しました。

建物の魅力にすっかりやられ気味となりましたが、JAMANIさんの個展もちゃんと拝見してきました。急な階段を登って二階にお邪魔すると、そこはまるで、おもちゃを散らかした子ども部屋のよう。細い鉄筋による造形を基本として、馬などの動物のオブジェや椅子、電灯飾りなどの装飾品が置かれ、また西洋的ないでたちの道化人形なども展示されていました。職人的な意識をお持ちなのでしょうか。いずれの作品も、何かを表現したいという欲求よりも、完成度の高いものを作るのだという意欲の方を強く感じさせます。先鋭的な創造性はないけれど、満ち足りたこの世界を遊び尽くそうという心意気。自己流によって世界を、事物を、再生産しようという意気込みが伝わってくるようです。

ただ申し訳ないのですが、今回ばかりは建物の魅力にあてられて、個々の作品の印象があまり残りませんでした。いや、この建物のなかに子ども部屋のような空間を作ってみせたこと自体がJAMANIさんの作品であったと理解するならば、大変印象深い体験をしたと言えます。子ども部屋のようにしつらえられた空間を媒体として、僕の幼少期の記憶と、全く無関係のはずの犬養邸に堆積する記憶がリンクするような錯覚を、確かに覚えました。これは先に苫小牧で見た「記憶と循環」と同種の仕掛けですが、ほぼ普遍的な小学校という場のみならず、個人の邸宅においても、ノスタルジーを刺激することで、人と場との記憶の響き合いが生じるのだということを発見できたのは、大きな収穫だったと言えます。

そしてなにより、素晴らしいギャラリーがまたひとつ増えたことを喜ばしく思います。集客は今のところ・・・のご様子ですが、まだまだこれから。ぜひ頑張っていただきたいですね。

A:谷口能隆写真展『Passage』<パリ&プラハ>(ギャラリーエッセ)

谷口能隆写真展『Passage』<パリ&プラハ>(ギャラリーエッセ 2011/8/16-21)

札幌駅の北側、北大の正門からもほど近い好立地に「ギャラリーエッセ」さんがあります。本業は不動産屋さんなのでしょうか。隣にはそのオフィスがありますが、随分と贅沢な場所をギャラリーにしたものだと他人事ながら感心します。開口部が大きいことと、壁の屈折が多いために、平面作品の展示にはやや工夫が必要となりますが、広い空間は立体作品やインスタレーションの展示には最適でしょう。これまでも様々な企画の会場として利用されてきましたが、僕が見たのも、立体と平面が入り交じったものが多かったように思います。都心部にあってこの広さは、やはり魅力的です。

そんな前振りとは対照的な、谷口さんの写真展を拝見です。A3サイズほど額装された写真が、壁に整然と掛けられています。いずれもストリートスナップで、豊かな階調が生きた美しいモノクロームの作品です。表題のとおりパリとプラハの街並みなのでしょう。街の歴史と現在の住人の生活が折衝しながら、いびつな時を刻み続ける異国の空間。それを美化するでもなく、皮肉るでもなく、内に潜り込んで内実を暴露するでもなく、若干の好奇を向けつつも淡々とファインダーに収めるような仕事ぶりです。敬意と愛情に溢れてはいますが、いかにも行儀のよい、毒にも薬にもならない写真と言わざるをえません。

決して貶めるつもりではありません。現地で取材する労力等々、大変なものがあるとは想像しますし、継続した仕事には敬意も抱きます。しかし見た後に感じるのは、圧倒的な物足りなさです。谷口さんがなぜパリやプラハを選んだのか、必然性が感じられません。その好奇心に共感もできません。パリやプラハと聞いても、僕があまり異国情緒に期待しないせいでしょうか。

ただこうした王道の写真を見ると、安心感を覚えることは確かですね。枠からはみ出ない方法論がいつの時代でも有効性を失わないのだと証明していただけるのであれば、素直に賞賛したいと思います。