A:樽前arty2011×記憶の循環(苫小牧市立樽前小学校)

樽前arty(ギャラリーLEO他)×記憶の循環(苫小牧市立樽前小学校 2011/8/6-14)

札幌のアートとラーメンの動向を追う当ブログとしては、今回はほんのりと番外編です。久しぶりに休暇を申請して、ドライブがてら苫小牧まで足を延ばしました。もちろんお目当ては、ここ数年来、同地で活動されているアーティスト集団「樽前arty」主催のイベント「樽前arty2011」と、それとのコラボレーション企画である「記憶の循環」です。「樽前arty」は昨年活動の休止を宣言されていたと記憶していたのですが、集団としては活動しないけれど、イベントは継続させてゆくといったところに落ち着いたのでしょうか。内情については無知ですが、なにはともあれ継続は大歓迎です。長い時間をかけて地域に溶け込んだこのイベント、途絶えさせてしまうには惜しすぎます。

今回はチラシがとても豪華ですね。ホテルの宿泊優待プランまで盛り込んだ、内容だけを見れば、観光雑誌さながらの充実ぶりです。ただし「樽前arty」と「記憶の循環」がそもそもは別のイベントであることや、なぜその両者がコラボレートしているのかということが非常にわかりづらいうえに、開催概要にあたるテキストも見当たりません。美しくデザインされていて見栄えはするのですが、情報を断片的に集めただけで、それらを伝達することへの配慮が欠けているように思えます。僕も同行者の方も、いったいどこで何を見ることができるのかあまりよくわからず、とりあえず会場へ向かうしかなかったほどです。ちょっと残念。

「樽前arty」の企画として会期中に常時開催されているのは、「樽前堂〜不思議な夢〜」(ギャラリーLEO-1)のみ。ライブパフォーマンスや演劇、パネルディスカッション等もあるようですが、時間の都合で不参加。「樽前堂」のみを拝見してきました。

アートマーケットと呼ぶのが聞こえがよいのでしょうが、要するに展示即売会ですね。チラシにはキュレーションをされた方によると思われる「展示としても一つの空間を創りあげるためにテーマを持たせました。」というテキストが載せられていますが、展示空間を拝見するかぎり、テーマを持たせ得ているのか、大変疑わしいところです。そもそも「不思議な夢」というテーマがどこから導かれたのか、あるいはそのテーマがどこに着地しているのか、全く不明です。そんな余計なことをせずに、素直に作品に向かい合わせる方がよほどよいでしょう。

個々に見れば(「記憶の循環」を見た後に思ったことですが)、例えば熊沢桂子さんの場合のように、展示している作品と同等のものを買えるのはとても魅力的だと思いました。また拝見している途中に、地元の方と思しきご高齢の方々がやってこられ、ポストカードなどを買ってゆかれていました。「樽前arty」がいかに地域に浸透しているか、片鱗を見た気がしました。賞賛すべき成果だと思います。

「ギャラリーLEO-1」から少し離れたところに、「記憶の循環」の会場となっている、苫小牧市立樽前小学校があります。平屋建ての校舎。周囲との境界が曖昧な校庭。錆びたバックネット。にぎやかな音の鳴る砂利道。散策路のある広い森。蝉の声に混じって聞こえる、子どもと先生のいかにも親密そうなやり取り。田舎の小学校のステレオタイプのような佇まいです。海が近いせいか、空気は湿気をたっぷりと含み、木の幹や木陰には苔がびっしりと生え広がっています。

夏休みとはいえ、よく小学校を会場として借りられたものだと感心します。これも「樽前arty」の地道な活動の成果なのでしょう。

以下、拝見した順に作品について書いてみます。タイトルの失念はいつものこととご勘弁ください。

熊沢桂子:校庭の端。バックネット裏の芝生の一角に、透明なガラス製の、わらびのように先端が丸まった植物を模したオブジェがあります。オブジェは一本一本大きさ太さが異なり、それらが数本まとまって一群をなしたものが数箇所に設置されています。注意を促す立て札がなければ見逃してしましそうなほどひっそりと、しかしガラス特有の煌めきを秘めて佇むこれらのオブジェたちは、自然の神秘を顕現したかのような美しさで、蝉が羽化する瞬間を目撃したときの感激にも似た懐かしい感情をくすぐります。(熊沢さんの作品は校舎内にもあったのですが、そちらについてはあまり言うべきことがないので省略)

ジェームズ・ジャック:こちらも校庭のはずれ。小高く土が盛られた山の上に、ジェームズさんの作品の痕跡である赤っぽい土が撒かれています。小学生たちとともに土や灰を撒くパフォーマンスをされたようですが、それがどのようなものであったのかは、残念ながら知ることはできません。一応その痕跡を見たということで、ここに書いておきます。

長澤裕子:校舎の裏手、キノコの栽培場のなかに、石版が規則正しく並べられています。個々の石版には六〜七本のゆるやかなカーブを描く溝が刻まれており、それらを連ねることで、空気の流れを視覚化する仕掛けです。明解でよいのですが、肝心の栽培場付近が、それほど空気の流れを感じる場所ではなかった(むしろあまり空気が流れない場所に思われた)ので、設置場所にひと工夫必要そうです。

藤沢レオ:栽培場からさらに奥、遊歩道のある森へと入ってゆくと、木の幹に小さな円筒形のものが貼り付けられているのに気づきます。円筒の内側の底は蛍光のピンクで塗られており、その面が見えるようになっています。立て札のある位置まで行って見渡すと、かなりの広範囲にわたり、多くの木に、無数の円筒が貼り付けられているのがわかります。全ての円筒がこちらを向いていて、木々が怪しく光るまなざしを差し向けているかのような気分にさせられるのです。子どもの頃の、森の奥に迷い込んだ時に感じた不気味さを蘇らせる試みでしょうか。確かに不気味ではありましたが、モノとしてやや陳腐。正体が先にわかってしまい、興ざめしえしまうのが残念です。

小林麻美:教室の中に大きな油彩の作品を置いています。空間の設計はとても恣意的で、カーテンを用いてひとつの教室を二室に区切り、一方の壁際には作品を配し、もう一方には低学年用の小さな机と椅子で席をつくりカーテンの隙間から作品を覗き込ませるといった、さながら小さな劇場か映画館のような空間が準備されています。油彩は、複数の人物がタオルを全身に巻き付けながら、プールサイドにたむろしている様子のもの。床のタイルの模様がタオルの柄へと侵入し、またタオルの柄が周囲の空間へと拡散してゆく、色や形、物質や空間の境界が交錯しあい、侵食しあって限りなく曖昧になってゆく、不思議な世界が描かれています。難解です。ただこの画面の意味内容よりも、劇場的な空間で作品と対面する仕掛けによって、ノスタルジーを喚起することが狙いなのだとは思います。画面が難解なため、仕掛けとのバランスは危ういかもしれません。

藤本和彦:児童用の学習机の天板を無数に連結させて、教室の床や教卓の上などに敷き詰めています。天板にはたくさんの小さな穴が空けられていて、天板によってはその穴にトグサが差し込まれ、風化した記憶に新たな生命が宿るといった、まさに「循環」の様相を示しているかのようです。が、雰囲気としてはどこか殺伐としていて、湧き上がる感情はもの悲しさや切なさが先に立ちます。ひょっとしたら、ノスタルジーの二面性を意識されているのかもしれませんね。

前澤良彰:水たまり、祭飾り、花などのイメージの断片が、モノクロームやローキーの写真で提示されています。大きなケースに入れられ、まるで標本箱を並べているかのようです。それぞれ素敵なのですが、タイトルにあった「1968年〜」(詳細は失念)という部分がどれほどそれぞれの写真と関わりがあるのか、あるいは今回の「記憶と循環」というテーマと関わりがあるのか、そしてこの小学校という場とはどうなのか、判断しかねます。

原井憲二:シンプルな紙の作品が二点です。一点はひらがなで綴られた樽前小学校の校歌の歌詞を、ひらがなの部分を切り抜いて額装したもの。オルガンの上に置く気づかいが素敵です。もう一点は校庭の真ん中にある桜の木を、絵の具などは一切使わず、紙にドットのような穴を無数に空けることで描きだしたもの。目の錯覚によっておぼろに浮かび上がる桜の像が、薄れゆく記憶のなかの風景と、絶妙にリンクします。直截さに一番好感をもった作品です。

板東史樹:体育館のなかに苔が茂りシダ植物が芽生える場面を、模型を使って写真化した作品です。ただし何が模型で何が実物なのか、粒子の荒いモノクロームの画面と相まって、作品を見るだけでは判断できません。もし体育館がこのまま何百年も放置されたら、このような場面を実際に見ることができるかもしれないといった遊び心満点の未来予想が込められていて、難しいことはなしに面白いと思える作品です。

富田俊明:体育館のステージの上に、長テーブルと椅子が荘厳な様子で置かれています。テーブルの上には真鍮製のお皿が多数置かれ、そのお皿には、おそらく(外国の?)児童の手によると思われるイラストや言葉が刻まれています。内容は食事に関するもので(魚嫌いの子の多さに驚きます)、学校における大きな関心事のひとつである給食との関係であろうことは容易に想像できますが、設置場所や演出には疑問が残ります。

全体的に見ますと、会場となった樽前小学校という空間と、真っ向勝負をしている作家と、そうでない作家との温度差が随分あったように思えます。また「記憶の循環」というテーマへの取り組みに関しても同様です。それぞれの制作スタイルの問題だとして一任してしまうのもひとつのやり方ではあるのでしょうが、この企画を今回限りのものとしないならば、意識や姿勢の共有を促して、場-テーマ-作品のより深い響き合いを生じさせる正しい意味でのキュレーションというものが、今後は必要になってくるに違いありません。

蛇足ながらもの申します。作家の頭数を揃えることや、テーマを設定してそれに沿った作品を提出させることがキュレーションではないでしょう。安易に用いられるキュレーションという言葉。やたらに増え続けるキュレーターと呼ばれる存在。そろそろその無節操さを反省してもよいはずです。