A:茶室DEアート(紅桜公園茶室 寿光庵)

茶室DEアート(紅桜公園茶室 寿光庵  2011/7/16-18)

しとしとと降る長雨が、夏の緑をけぶらせます。そんななか、当ブログに何度かご登場いただいている澁谷俊彦さんの講演とインスタレーションを目当てに、紅桜公園の「木乃実茶屋」と茶室「寿光庵」にお邪魔しました。恥ずかしながらの初訪問です。いずれも道産の木材をふんだんに用いながら、日本建築の伝統的な方法を各所に取り入れて建てられています。ただし性格づけは対照的で、「木乃実茶屋」は北方の荒削りさ、ダイナミズムを感じさせる空間を、「寿光庵」は洗練された様式美を感じさせる空間を、それぞれ演出しています。

本来であれば当ブログは、作品のみから得られた感想をつづることを目的としているのですが、今回にかぎり(時間の都合上やむをえず)、先に講演をお聴きしてからの拝見となりました。会場は「木乃実茶屋」。講演の内容は、絵画から出発した澁谷さんが、いかにして現在のインスタレーションという手法へと至ったのかという経緯の説明でした。僕が理解したところを大雑把に図式化してみますと、まず第一段階では、柱状や半球状のオブジェの平面を画面とすることで、額縁や壁面から絵画を開放するとともに鑑賞に方位的自由と距離的な自由を与え、第二段階では、小さなオブジェの導入や反射光の演出によって作品への心的接近を促し、第三段階である現在では、具体的な光景を見立て、現実的なイメージとの親和あるいは衝突を生むことで作品への円滑な導入を試みられている、といったところだったかと思います。見立てという方法を採用する必然性を語る理論に若干の弱さを感じたのと、おそらくは僕と、サイトスペシフィックという概念の認識あるいは用語に齟齬があったためか、今後の展望について思い描かれていることを十分に理解しきれなかった部分がありましたが、全体としては非常に論理的でしたし、深い自問自答、徹底した試行錯誤、作家としての強い自覚と責任感を窺わせる奇特なお話でした。とりわけ僕にとっては、変節の途上、おそらく作品と鑑賞者との関係という問題が(それが自分の作品をどう見せたいかという能動の相であるか、どう見てほしいかという受動の相であるかは定かではないけれども)重要な関心事であったであろうことが、大変興味深い点でした。鑑賞者に主体的な鑑賞を促すことが僕は常々必要だと考えているので、積極的に論理的に鑑賞者との関係を築こうとする澁谷さんのこれまでのシークエンスには共感する部分が多かったです。

講演を聴き終えたのち、隣接する茶室「寿光庵」に設置されている作品を拝見です。茶室とは言っても四畳半以下のいわゆる草庵型のものではなく、一〇畳と一五畳の二間をつないだ広々としたつくりです。置かれている作品は大別して二種類。茶色く細長い板の上に白い砂を敷き、さらにその上に真っ白に塗られた板を置いたものが八点(?数え忘れました)と、透明なアクリル板で作った水槽に水や砂を入れて、その上にやはり白く塗られたオブジェを置いたものが四点ありました。板状の作品は、上に載せられている白い板の形がそれぞれ異なります。真っ直ぐなものもあればねじくれているものもあり、波打っているのものや複数の板が重ねられているものもあります。それらの裏面(あくまでも上から見たときに裏面に相当する面)には例のごとく蛍光塗料が塗られており、茶色い板や白い砂の上に艶やかな陰を落としています。配置は極めて意識的で、畳や敷居が描き出す縦と横の直線の模様に対し、斜めの補助線を加えるようなかたちで置かれています。あまり恣意的な読み方はよくないのですが、縦と横の静粛な和音のなかに斜めの非和声音を差し込むことで、茶室の空間に豊かな旋律を生む試みのように見えます。開け放たれた障子から室内に響いてくる雨や風の音が、作品の造形とシンクロします。この具体性(具体的なものとの結びつきを連想させる喚起力)は、澁谷さんの作品の大きな強みだと思います。また、これまでに拝見した作品についても言えることなのですが、澁谷さんの作品は床の模様との親和性が非常に高いですね。もっとも床の模様は空間のもつ方位性を直接的に反映するものですから、空間を意識していれば自然と床の模様との親和性も生まれるということなのでしょう。

一方水槽状の作品は、縁側に配置されています。四つのうち三つに水が張られ、残りの一つには白い砂が入れられていて、それぞれにオブジェが異なります。水が張られているものには、桜の花びら(紅桜公園へのオマージュか)、蛙とその周辺のジオラマ、亀とその周辺のジオラマが浮かべられ、砂が入れられているものにはキノコと朽ちた木が置かれています。いずれも真っ白なのですが、表からは見えない部分には蛍光塗料が塗られ、水槽の底や砂の上に赤やオレンジの光を反射しています。とりわけ桜の花びらのものは、水面に浮かぶ無数の白い花びらの周辺に赤い光がにじみ、水の中に花びらが溶け出してゆくかのようで、無常感にも似たせつなさを臭わせつつも妖艶な印象を残します。これらの水槽状の作品は、上から見ると二〇センチ四方ほどの正方形で、のぞき込んで作品世界に没入するにはちょうどよいサイズです。具体的なモチーフを利用することで、直接的に鑑賞者の関心に働きかける内容であることも、没入へ誘うには効果的です。縁側という開放的な空間に置いたのも、その反作用に期待するがゆえでしょう。理詰めで計算尽くで、少々憎らしいですが、確かに面白い仕掛けです。

以前も似たようなことを書いたのですが、全体として見ますと、澁谷さんの作品は優れてコンセプチュアルで、かなりのレベルでそのコンセプトを実現されているように思われます。隙がなく、面白いのだけどとっかかりが得づらいという印象も、今回も同様です。インスタレーションを成立させる方法論が非常にシステマチックであることが(もちろん毎回試行錯誤されているに違いないのですが)、その要因なのかとも思います。つまり、すでにある程度コンセプトの固まった制作物があり、それを設置する場に持ち込み、場から得られたインスピレーションを消化して制作物の設置方法を工夫したり内容自体に改変を加えるなどして、制作物と場とを協働させることでインスタレーションを成立させるという方法が、しっかりと確立されきっているのではないかと思うのです。まず制作物ありき。そしてそれを設置する場に即して論理武装させ、インスタレーションとしての体裁を整える。なるほど隙のない作品となるはずです。

しかしこれとは逆の方法論、すなわち場ありきで始まる作品もまた成立し得ます。例えばサイトスペシフィック・アートと呼ばれるものがそれです。もしサイトスペシフィックという概念の導入を目指すのであれば、作品における場の重要性は俄然増してきます。具体的に指示し得る特定の場とそこに設置することの必然性、「ここでなければならない」という強固な限定性を有すること、それがサイトスペシフィックの要件だからです。こういったサイトスペシフィックというあり方と対照すると、澁谷さんの作品は、正しい意味でのインスタレーションとして見えてきます。場そのものには意味を持たせず、制作物を設置することで、どのような空間でも作品として提示し得るのだということを、まさに実践されているように思えます。それゆえに、作品における場への意識については、強さの絶対値は同等だとしても、澁谷さんが現在のインスタレーションで実現されているコンセプトとサイトスペシフィック・アートとでは、そのベクトルが大きく異なっているように思えるのです。ですから澁谷さんが作品における場というものに、どれほどの重要性を認めているのか気になるところでありますし、インスタレーションからサイトスペシフィック・アートへとどのような理論をもって飛翔されるのか、改めて伺いたいところでもあります。さらに付け加えるならば、サイトスペシフィックという指向には、一度額縁から外した絵画に新たな額縁を付けるような危険性も伴うはずです。その対処法も伺わなければなりません。

ただし、サイトスペシフィック・アートをインスタレーションの発展形式であるとする考え方もないわけではありません。特定の場で行うインスタレーションがサイトスペシフィック・アートだという理屈です。ですが僕としては、美術館という場に対する反発が、場との結びつきを徹底的に希薄にするインスタレーションという方法と、美術館以外の全く別の場との結びつきを獲得するサイトスペシフィックという方法を生み、個別に内容が充実してゆくにしたがって、それらの境界が曖昧になっていったと見るのがよいのではないかと思っています。様式や方法論なんて、都合良く順序よく表れてくるわけはないですから。ともあれこのあたりの認識の違いが、僕と澁谷さんの間にはありそうです。錯綜した議論になりそうなので、ゆっくりお話しできる機会があればその時にでも。しゃべるのは得意ではないのですけれども。

やや興奮気味に書きましたが、諸々はさておいて、単純に、これほどの理論構築をされる方が、従来のコンセプトや制作物を一旦忘れ去って、場のみから発想して作品を作ろうとした場合どのようなものができるのか、目撃してみたい気もします。目指すものが違うと一蹴されそうですが、いかがでしょうかね。妄想だけ勝手に進めさせていただきます。

さて、随分と長く書きました。過去最長です。実はこのあと、お茶つながりで、モエレ沼公園ガラスのピラミッド内で開催されていた「folding cosmos/内在する宇宙」へも伺ったのですが、なにか書こうにも、もう頭もお腹もからっぽです。気が向いたらまたいずれ。

A:白鳥洋一「さっぽろ絶景 花火」展(ギャラリーレタラ)

白鳥洋一「さっぽろ絶景 花火」展(ギャラリーレタラ 2011/7/1-28)

札幌という街は、つくづく住みよい街だと思います。ラーメンは美味しいし、季候もよい。規模もちょうど良く、ほどよく都会でそれなりに田舎でもある。自然が豊かで、文化も育っている。よく札幌には文化がないなどとしたり顔で仰る「文化人」の方がいらっしゃいます。それこそ京都風の、時間的にも空間的にも歴史と強固に結びついた伝統文化がないという意味では、確かにそうでしょう。でも、そういった意味での文化がなかったとしても、開拓以後の歴史のみを振り返るだけでも一四〇年以上にわたってこの地で営まれてきたなにものかはあるわけで、それを文化と呼ばず、文化であるという自負をもって育ててゆく覚悟を持たず、なにが「文化人」なものかと。また一方で、自負が強すぎるあまり、自然な成長を阻害してしまう方もいらっしゃるので困りものです。親がなくとも子は育つ。多少は雨風に吹かれるぐらいの方が、強くたくましく育つものでしょう。どうかまっとうな親心をもって、札幌の文化を育てていって欲しいものです。

芸術文化(特に造形芸術の分野)に関しては、近年、立て続けにいくつかの新しいギャラリーが設置されました。そうした動向自体は歓迎すべきところなのですが、いずれのギャラリーも、とりわけ現代アートの作家を応援することを運営の方針に掲げている点には、少々不安を覚えます。なにも自主企画をやれだとか、物故作家や古典作品を扱えと言うのではありません。ただ、「作家を応援する」ことばかりがギャラリーの役割なのだろうかと、疑問を感じずにはいられないのです。一般的にギャラリーは入場料をとらないために、ギャラリーにとっての「お客様」は、必然的に、そこで個展なり企画展なりを開催する作家となります。そのため作家との良好な関係を結ぶことは、運営上の大きな課題なのでしょう。とはいえ、あまりにも作家の方を向きすぎていて、鑑賞者についてはほとんどなにも考えられていないのではないかと思うのです。あまり知られていない作家を紹介したり、ギャラリートークを開いてみたり、一見鑑賞者向きの活動もなくはありません。しかしいずれも、鑑賞者の主体性を育てることに寄与しないということは明白です。これらは言ってみれば、ギャラリーから鑑賞者へ向けての一方的な提示であり、下手をすれば鑑賞者の受動性を助長して、ますます主体性を奪う方向へと働きかねません。なにかもっと主体的な鑑賞へと導く方法はないものか、考えたいところです。いまだ啓蒙主義の余韻に浸り、教育施設としての社会的使命に存在証明を負っている博物館にはできないことが、ギャラリーにはできるはずです。作家と同時に鑑賞者を育てるということも、考えていただけることを願います。

いつにもまして壮大な前置きとなりました。下沢敏也さんの個展のときにご紹介した「ギャラリーレタラ」さんにお邪魔したのですが、札幌では最も新しい(?)ギャラリーですし、改めてHPを拝見したところ作家向きの言葉しか書いていないことが気になったので、これを機に少々愚痴をこぼさせていただきました。決してレタラさんを責めているわけではありません。念のため。

さて、今回拝見したのは白鳥洋一さんの作品です。ギャラリーに一歩足を踏み入れたとたん、目眩がするような感覚に襲われます。まさにサイケデリック。これ以上にしっくりくる形容の言葉が思い浮かびません。壁一面に、上下何列かにわたって、サムホールサイズのものから六〇号ぐらいのものまで、大小様々な平面の作品が飾られています。とにかくその極彩色が強烈です。マチエールはマットなのですが、輝かんばかりの彩度の赤、黄、ピンクが振るわれ、その威力に頭の奥がしびれるような感覚すら覚えます。それに負けじとよくよく見てみると、どうやら黄色とピンク色の部分は蛍光塗料で描かれている様子。そこが照明の光を受けて、実際に輝いているという仕組みです。非常にユニークで、視覚的効果的は抜群です。さらに観察すると、主調をなす赤色のなかに、岩絵具のような荒い粒子を下地に盛りつけた部分があることがわかります。また、黒く見える部分は実は群青で、やはり岩絵具のような荒い粒子の下地に賦彩され、周辺と比較してよりマットな質感を出しています。だいたいの場合において、他の色彩の迫力に圧倒されてあまり効果を発揮してはいないのですが、注意して見れば色調に深みを加えて、画面に一定の落ち着きを与えてはいるようです。

描かれているのは、街に夕日が落ちる風景と、花火の風景。いずれも札幌が舞台のようで、テレビ塔豊平川など、わかりやすい象徴が描き込まれています。とても個性的な描写で、夕日はともかくとして花火は、真っ赤に染まった空一面に複数の打ち上げ花火の軌跡と、空気のビリビリという震えまで漫画的効果を用いて描かれています。また、花火はまるでイソギンチャクか、顕微鏡で覗いた微生物のよう。それが真っ赤な画面いっぱいに描かれているものですから、血管のなかでうごめくウイルスか何かのようにさえ見えます。ただし、少なくとも僕の場合は、不快感を感じることはありません。なぜこのように描いたのかと、ひたすら不思議に思います。ほのかに狂気めいた香りを感じて薄ら寒くもなりますが、それも一瞬の風景へ注ぐ愛情の強さの裏返しと捉えればよいのでしょうか。

しかし、なぜ作家がこれほどまでに花火の風景にこだわるのか、あるいはサイケデリックな画面づくりにこだわるのかということについては、図り知ることはできません。とても個性的に、印象的に描けていることは間違いないのですが、かえって作家の姿というか、作品に込められた切実さが希薄になっているように思えます。個性的な画面を作ることの愉快さに酔っていなければよいのですがと、余計な心配をしてしまうほどに。

ともあれ、この目の覚めるような(眩むような)視覚体験はとても新鮮で、こういった方法もあるのかと、感心した部分も大きかったです。まもなく花火の季節。これらの作品の記憶を、夜空に重ねて思い描いてみるとしましょう。

A:加藤委展 NORTH SEA ROAD 「サンカクノココロ」 (ギャラリー創)

加藤委展 NORTH SEA ROAD 「サンカクノココロ」(ギャラリー創 2011/7/9-18)

雨の気配を感じつつ、「ギャラリー創」さんにお邪魔しました。設立からまだ4年なのですね。しかしながら、現代アートの制作に励む作家の足がかりとして、あるいは道外作家の紹介の場として、すでに札幌のアートシーンを語る際には欠くことのできない存在となった感があります。きちんとコーディネーターの方がいらっしゃって、貸し館のみならず企画展も開催するところがよいですね。責任感や使命感などあまり考えず、気負わず、ご自身の主観と感性に従って、これからも話題を提供し続けていただきたいものです。賞賛も批判も受けることがあるかと思いますが、それらに研磨されて強靱に育ってくれることを願います。

さて、加藤委(かとうつぶさ)さんの作品を拝見です。青白磁の作家として、このところ注目されているとのこと(相変わらず不勉強ではじめて知りました)。なるほど、白地の磁器に青磁釉をかけるというスタイルを基本として、椀、皿、コップ、花器といった器のものから、器の形を崩してみせた抽象的な造形のものまで、多様な作品が並べられています。造形的には、斬新さはあるものの、やや場当たり的な印象を受けもします。一度形づくったものに一手間加えるといったふうな方法でしょうか。刃物で土を削ぎ落とすことで生じる滑らかな面とそれらが交わる鋭利な角。ねじくれて歪んだフォルム。独特で、勢いがあり、確かに面白いのですが、何か深い意味を考えさせてくれるまでの力は、残念ながら僕には感じられませんでした。ただ、土塊から磁器が萌芽しているような作品については、土が磁器としての生命を得る様子を描写しているようで、興味深いものがありました。

なにより強く惹かれたのは釉薬の用い方です。おそらくは一般的な青磁器に使用されている青磁釉を使われているのだと思われますが、加藤さんの作品においては、釉薬は磁器の色彩や表情に変化を生むための添加物としてではなく、造形的な部分を支える一素材として用いられているように思われるのです。白地の上に大胆に青磁釉をかけることで「むら」や「たまり」ができ、恣意的にいびつに形づくられたフォルムを、偶然的なフォルムが包み込みます。こうした白地と青磁釉の取り合わせによって、恣意と偶然の二元論的世界観が示されている、と言ったら言い過ぎでしょうか。しかし少なくとも、磁器における釉薬という存在が、それ単体でも意味を持ち得るのだということを示していることは確かです。考えてみれば、そもそも磁器は、土台となる粘土質物と釉薬との取り合わせによって構成されているものです。普段は両者が寄り添うがあまり、全体としてひとつのものと見なしがちなのですが、加藤さんはそれらの関係を分断して、それぞれに個別に意味づけをして提示してみせたと言えます。これには目から鱗といったところです。

展示されていた作品のなかにはガラスの花器や、磁器とガラスを組み合わせたものもありましたが、釉薬の延長としてガラスを素材に用いるという方向性は、単純ですが理にかなっています。その作品は大胆な造形で迫力があり、土→陶→ガラスといった、生命の成長か進化過程にも似た図式が示され、フォルム以上に雄弁です。しかしながら、それを示すことでいったい何を伝えようとしているのかというところに思考を巡らせようとすると、残念ながら、作品から得られるヒントはほとんどありませんでした。斬新な方法を手に入れることのできた興奮をたよりに、ひとまず邁進しているといった感は否めません。いくつか植物を活けている作品も見受けられましたが、会場の雰囲気作りを目的としているだけのようで、いかにも中途半端で作品に寄与していません。迂闊にやるべきことではないですね。

不満をもちつつも、感心するところも多く、全体としては十分に楽しむことのできた個展でした。あと一歩、訴えかけてくるものがあればと惜しく思います。具体的に指摘できない自分の無力さを感じながら、今回はこのへんで。

R:凡の風「塩ラーメン」を食す

凡の風「塩ラーメン」

アートとラーメンの批評をするという珍妙なこのブログ。早くもというべきか、ようやくというべきか、記事の数が二〇本を数えました。厳密な論理性や学問的な裏付けなどは一切気にせず、筆の進むままに書き連ねていますので、話題が飛んだり、論理が破綻したりしている箇所も随分あると思います。ですがそれでよいのです。まずは書くこと自体が目的ですので、当分はこのままの方針で。徐々に体裁を整えてゆければよいということにしておきます。言葉で考えることの大事さが身にしみて感じられた三〇代男性の、ささやかな実験です。

さて久しぶりに、当ブログの二大テーマのひとつであるところのラーメンです。お腹の具合にまだ若干の不安が残るため、大好きなこってり系ではなく、胃にやさしそうな一杯を選びました。お邪魔したのは「凡の風」さんです。事前に簡単に情報を集めてみると、あっさりとした塩ラーメンが売りのご様子。今の気分と体調に、まさにおあつらえむきです。

店舗の様子は、いかにも最近のラーメン屋さん。清潔感があってスタイリッシュです。店内の空間に厨房がV字型に突き出ていて、その片側がカウンター席、反対側はテーブル席が設けられています。待合のスペースが広くとられていますが、広すぎるのと見通しがよすぎるのとで居心地はあまりよろしくありません。さらに、会計は食券制なのですが、券売機の位置がわかりづらく迷います。席に着いてしまえば気にならなくなるのですが、どうも空間設計がうまくいっていないような印象です。

肝心のラーメンは、まずは期待通りの見た目です。黄白色のスープに表面に、白ごまと、煌めく透明な脂が浮かびます。ひとくちすすると、舌の先にじんわりと染みこむような感覚があります。鰹節ににた酸味と旨味を感じさせつつ、全体にさらりと広がるコク。かすかに感じられるコラーゲンの粘り気。そういえばメニューには「魚介+豚骨+鶏」と書いてあった気が・・・。失念しましたが(テーブルにメニューが置かれていないのでじっくり見ることができなかったのです)、ならば納得の多重奏といったところでしょう。塩分をしっかり効かせて味の厚みを増しているのは評価できるポイントです。ですが、味のバランスを重視した結果、印象を薄れさせてしまった感も否めません。

麺はやや角張った中細麺。よく見る黄色いタイプのストレートです。残念ながらこの手の麺は、安っぽくて好きではないです。食べてみると、予想通り、ほとんど旨味がありません。旨味がないだけならば、スープの味を邪魔をしないための配慮なのかもしれないと解釈することもできたのですが、風味が致命的です。いかにもたっぷりかん水を使ったという香りが、噛む度に鼻に立ちのぼってきます。せっかくバランスよく仕上がっているスープも、これで台無しです。

具にはチャーシュー、メンマ、海苔、細長くきざまれた長ネギが添えられています。ごくごく普通で、特筆すべきことはありません。チャーシューの見た目は、よく見る丸められたものとは違い、バラ肉を薄切りにしたそのままの形で一瞬期待しましたが、味はごく平凡。メンマは一般的なものよりも味が数段薄いもの(あるいは味抜きをしたもの)が載せられています。やはりスープの味を邪魔しないための工夫なのでしょうが、そこまでするならいっそのことメンマを載せなくてもよいような気もします。(追記7/11:ごくごく普通の煮卵も載っていました)

全体としては上品で、うまくまとまった一杯とは言えます。個人的には、やはり麺がよくなかった点が気がかりですし、いまいち特徴のはっきりしないスープを惜しく思います。結局のところ、並みの印象です。病み上がりのお腹にはやさしかったので、それでよしとしておきます。

凡の風 北海道札幌市中央区南8条西15丁目1-1 ブランノワールAMJ815 1F 011-512-2002

*ラーメンの画像は撮り忘れました。反省。

O:「A&R」について

つい先ほど知ったのですが、当ブログのタイトルに用いている「A&R」という言葉は、音楽業界では「Artist and Repertoire」の意味で用いられ、レコード会社における「アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作」(Wikipedia「A&R」より)といった職務または役職を指すのだそうですね。いやはや、まったく存じませんでした。

ためしにgoogleで「A&R」と検索してみると・・・二番目に当ブログが出てきてしまうのは僕のパソコンだからでしょうか。なんだかとても申し訳ない気分です。ですが、音楽業界を目指す若者が「A&R」で検索して、当ブログにたどり着き、がっかりして「戻る」を押すのか、息抜きに記事に目を通してみるのか。そこにどのような心の動きを生むのだろうかと想像すると、案外楽しかったりもします。変なことを延々と続けている人がいる、程度に思ってもらえれば十分幸せですね。

当ブログの「A&R」が「アート&ラーメン」を指すことは言うまでありません。「R」の記事が停滞気味であることは非常に遺憾なのですが、体調が快復ししだい鋭意取り組む所存です。

さてさて、次はどこへ行くとしましょうか。

A:波のゆくさき 神粼剣抄 個展 2011(CAI02)

波のゆくさき 神粼剣抄 個展 2011(CAI02 raum1 2011/6/28-7/13)

ようやく夏らしい暑さです。冷たいものを美味しくいただけることを思えば、悪くない季節なのですが、あいにく体調の方が最悪。うっかり風邪をひいて壊したお腹が、あまり食べ物を受け付けてくれません。このまま夏バテ一直線は困ります。快復したらウナギでも食べに行くとしましょう。ラーメンは当分おあずけです。

さて、今回は「CAI02」さんへお邪魔しました。外の、夏の気配もなんのその。暗くて湿っぽい雰囲気は相変わらずです。この季節や時間の変化から隔絶された非日常性は、美術館的と言ってもよいかもしれません。どんな経験ができるのだろうかと、毎度期待感を抱かせます。ただしあくまでもギャラリーですので、それなりの審美眼でもって企画、出品作家の選考をされているのだとは思いますが、展覧会の品質保証という点においては、美術館ほど重い責任を負っているわけではないことは確かでしょう。「CAI02」さんに限ったことではありませんが、経験から言えばつまらないものも随分と多いですし、お金さえ出せば展覧会を開けるギャラリーもたくさんあります。もちろんすべてを否定するつもりはありません。そういったギャラリーのあり方が、芸術文化のある一面を支えているということは間違いないのです。ただ、蓋を開けてみれば、ギャラリー、作家、鑑賞者、すべてが身内の、馴れ合いの果ての展覧会というのは、やはりやめていただきたいとは思います。誰のためにもなりませんし、何よりも井戸の中で飼い殺される作家が不憫です。

神粼さんはどうなのでしょうかね。「波のゆくさき」という詩的なタイトルに惹かれて訪れてはみたものの、これを誰に見せたいのかまったく不明瞭で困惑しました。少なくとも、外に向けて何かを訴えかけようとしているとは思えません。全体的に雑なのも気にかかります。何かに不満やいらだちを覚えているのか、それらをうまく発散できずにもがいているのか。よくわかりませんが、方向性を間違っているように思えます。知性による昇華がなければ、行き場のない感情が表現に結びつくことはないでしょう。てらいも鼻につきます。

作品は平面のものと立体のものがありました。平面のものは、アクリル絵具、墨画、金屏風にペンキ、さらにはアメジスト、粘土、米粒など多様な素材を使っています。全体として墨のような黒を主調とした抽象的な画面で、荒い筆致でほとばしる線や渦を描き、自然が描き出す連続する造形の一部を切り出したような印象です。立体のものは鉄の角材を組み合わせたオブジェで、ところどころ分断された格子が屹立しているといった様子です。これらを取り合わせれば、連続と断絶といったテーマ性もかすかに見えてきそうです。しかしいかんせん雑なので、どうしても正面から向き合う気勢をそがれてしまいます。勿体ないと思うべきなのか、僕の性に合わないと切り捨てるべきなのか、迷うところですね。

会場に鳴り響いていた「翼をください」がさらに気持ちを萎えさせました。どうやら他の方(名前は失念)のビデオインスタレーションを併置していたようです。五つの小型モニターにタイミングをずらして同じ映像を流すというものでした。神粼さんの作品と関連づけての設置なのか、そうではないのか、判断にも理解にも苦しみます。おかげで作品の印象は、ほとんどかき消されてしまいました。

翼をください」はよい歌ですね。小学生の頃を思い出します。鼻歌交じりに歌いながら帰りました。

A:加藤宏子 彫刻展(ギャラリーミヤシタ)

加藤宏子 彫刻展(ギャラリーミヤシタ 2011/6/22-7/10)

街中から西進した円山の一歩手前あたり。裏参道からはずれ住宅街へと入り込んでいくと、一軒の家宅と見まがいそうで、けれどある種の人には明らかにそれとわかる、「ギャラリーミヤシタ」さんがあります。開廊から二五年もの歴史を誇る、札幌の老舗ギャラリーです。いい雰囲気です。おしゃれなカフェギャラリーといった佇まいですが、ストイックなことにギャラリーとしてのみの運営です。展示スペースはさほど広くはありません。二〇畳くらいでしょうか。一階部分の八割ほどをあてた、板張りの床と白い壁の暖かみのある空間です。二階も使用できるようですが、今回は閉鎖されていました。

拝見したのは加藤宏子さんの作品です。植物を象ったような造形のオブジェが数点と、額装された平面的な作品が二点、展示されていました。いずれも純白の紙が素材として用いられていますが、即座に紙と言い切ってしまうことに、ためらいを感じもします。我々が一般的に「紙」と聞いて想像するものの姿はそこにはなく、おそらくは紙をほぐして得られた繊維が、蝋で作った型(作品を子細に見ると、細かな蝋の残骸が付着している)に押し込まれて形づくられた立体的な造形物となって提示されているのです。反面、これを立体として認識することも、やはりためらわれてしまいます。なぜなら、例えば花の蕾のような形をした箇所に目をやると、表面的には人の頭ほどの大きさの立体的な造形物であるけれど、中を覗けばそれは中空の構造で、紙と呼びうる平面的な繊維の塊を三次元的に周回させることで造形されたものであることがわかります。すなわちこれらの造形物はあくまでも平面の連続体であって、その素材を紙と呼ばない理由が見当たらなくなるのです。

自省をこめて紙の定義を検証してみるならば、辞書的には、植物の繊維を漉いたり押し固めたりしてつくられたもの、ということになるようです。その際、立体か平面かといった形状は問題とされません。これに従うと、加藤さんの作品は紛れもなく紙ということになります。ですが、普段の生活の中で紙というものの存在が、平面であることに依拠する有用性と深く結びついていることを考えれば、立体的に形成されたこれらの作品の素材を紙と断ずることには、理性では同意できるものの、生活感覚が拒絶反応を示すのです。

加藤さんの今回の作品は、平面と立体のはざまにあり、また紙と紙でないもののはざまにあると言えるでしょうか。思いがけず、「紙とは何か」という問いを突きつけられて、大変戸惑いました。こういう刺激は大歓迎です。

造形の部分に目を向けてみましょう。床に置かれた大きな作品は植物の茎と蕾のイメージでしょうか。小作品は植物の芽のようにも見え、地面に突き立つ鳥の羽のようにも見えます。壁にかけられた平面的作品は、古木の樹皮のようでもあり、折り重なる無数の貝殻のようでもあります。このように多様なイメージを想起させられますが、表そうとしている事柄はシンプルです。いずれも表面はごつごつとした盛り上がりが連続する造形で、自然のなかに存在するリズム、すなわち植物の表面や樹皮の襞に表れる凹凸や貝殻の年輪、動物の鱗や羽に見られる規則正しい配列などが刻む固有のリズムを象るかのようです。造形的には非常に洗練されていて、なるほどと、納得のゆく仕事と言えます。

ではなぜリズムというものを追求しているのかと問うべきでしょうが、素材の面白さに対して、やや負け気味といったところでしょうか。僕のなかでは「紙なのか、紙ではないのか」といった問いばかりがぐるぐると巡ります。もし作家が「紙」の問題と「リズム」の問題の両方を意識しているのであれば、それらをいかにして同時に、バランスよく問うかということが課題といったところでしょうか。とはいえ、面白い刺激をいただきました。