A:白鳥洋一「さっぽろ絶景 花火」展(ギャラリーレタラ)

白鳥洋一「さっぽろ絶景 花火」展(ギャラリーレタラ 2011/7/1-28)

札幌という街は、つくづく住みよい街だと思います。ラーメンは美味しいし、季候もよい。規模もちょうど良く、ほどよく都会でそれなりに田舎でもある。自然が豊かで、文化も育っている。よく札幌には文化がないなどとしたり顔で仰る「文化人」の方がいらっしゃいます。それこそ京都風の、時間的にも空間的にも歴史と強固に結びついた伝統文化がないという意味では、確かにそうでしょう。でも、そういった意味での文化がなかったとしても、開拓以後の歴史のみを振り返るだけでも一四〇年以上にわたってこの地で営まれてきたなにものかはあるわけで、それを文化と呼ばず、文化であるという自負をもって育ててゆく覚悟を持たず、なにが「文化人」なものかと。また一方で、自負が強すぎるあまり、自然な成長を阻害してしまう方もいらっしゃるので困りものです。親がなくとも子は育つ。多少は雨風に吹かれるぐらいの方が、強くたくましく育つものでしょう。どうかまっとうな親心をもって、札幌の文化を育てていって欲しいものです。

芸術文化(特に造形芸術の分野)に関しては、近年、立て続けにいくつかの新しいギャラリーが設置されました。そうした動向自体は歓迎すべきところなのですが、いずれのギャラリーも、とりわけ現代アートの作家を応援することを運営の方針に掲げている点には、少々不安を覚えます。なにも自主企画をやれだとか、物故作家や古典作品を扱えと言うのではありません。ただ、「作家を応援する」ことばかりがギャラリーの役割なのだろうかと、疑問を感じずにはいられないのです。一般的にギャラリーは入場料をとらないために、ギャラリーにとっての「お客様」は、必然的に、そこで個展なり企画展なりを開催する作家となります。そのため作家との良好な関係を結ぶことは、運営上の大きな課題なのでしょう。とはいえ、あまりにも作家の方を向きすぎていて、鑑賞者についてはほとんどなにも考えられていないのではないかと思うのです。あまり知られていない作家を紹介したり、ギャラリートークを開いてみたり、一見鑑賞者向きの活動もなくはありません。しかしいずれも、鑑賞者の主体性を育てることに寄与しないということは明白です。これらは言ってみれば、ギャラリーから鑑賞者へ向けての一方的な提示であり、下手をすれば鑑賞者の受動性を助長して、ますます主体性を奪う方向へと働きかねません。なにかもっと主体的な鑑賞へと導く方法はないものか、考えたいところです。いまだ啓蒙主義の余韻に浸り、教育施設としての社会的使命に存在証明を負っている博物館にはできないことが、ギャラリーにはできるはずです。作家と同時に鑑賞者を育てるということも、考えていただけることを願います。

いつにもまして壮大な前置きとなりました。下沢敏也さんの個展のときにご紹介した「ギャラリーレタラ」さんにお邪魔したのですが、札幌では最も新しい(?)ギャラリーですし、改めてHPを拝見したところ作家向きの言葉しか書いていないことが気になったので、これを機に少々愚痴をこぼさせていただきました。決してレタラさんを責めているわけではありません。念のため。

さて、今回拝見したのは白鳥洋一さんの作品です。ギャラリーに一歩足を踏み入れたとたん、目眩がするような感覚に襲われます。まさにサイケデリック。これ以上にしっくりくる形容の言葉が思い浮かびません。壁一面に、上下何列かにわたって、サムホールサイズのものから六〇号ぐらいのものまで、大小様々な平面の作品が飾られています。とにかくその極彩色が強烈です。マチエールはマットなのですが、輝かんばかりの彩度の赤、黄、ピンクが振るわれ、その威力に頭の奥がしびれるような感覚すら覚えます。それに負けじとよくよく見てみると、どうやら黄色とピンク色の部分は蛍光塗料で描かれている様子。そこが照明の光を受けて、実際に輝いているという仕組みです。非常にユニークで、視覚的効果的は抜群です。さらに観察すると、主調をなす赤色のなかに、岩絵具のような荒い粒子を下地に盛りつけた部分があることがわかります。また、黒く見える部分は実は群青で、やはり岩絵具のような荒い粒子の下地に賦彩され、周辺と比較してよりマットな質感を出しています。だいたいの場合において、他の色彩の迫力に圧倒されてあまり効果を発揮してはいないのですが、注意して見れば色調に深みを加えて、画面に一定の落ち着きを与えてはいるようです。

描かれているのは、街に夕日が落ちる風景と、花火の風景。いずれも札幌が舞台のようで、テレビ塔豊平川など、わかりやすい象徴が描き込まれています。とても個性的な描写で、夕日はともかくとして花火は、真っ赤に染まった空一面に複数の打ち上げ花火の軌跡と、空気のビリビリという震えまで漫画的効果を用いて描かれています。また、花火はまるでイソギンチャクか、顕微鏡で覗いた微生物のよう。それが真っ赤な画面いっぱいに描かれているものですから、血管のなかでうごめくウイルスか何かのようにさえ見えます。ただし、少なくとも僕の場合は、不快感を感じることはありません。なぜこのように描いたのかと、ひたすら不思議に思います。ほのかに狂気めいた香りを感じて薄ら寒くもなりますが、それも一瞬の風景へ注ぐ愛情の強さの裏返しと捉えればよいのでしょうか。

しかし、なぜ作家がこれほどまでに花火の風景にこだわるのか、あるいはサイケデリックな画面づくりにこだわるのかということについては、図り知ることはできません。とても個性的に、印象的に描けていることは間違いないのですが、かえって作家の姿というか、作品に込められた切実さが希薄になっているように思えます。個性的な画面を作ることの愉快さに酔っていなければよいのですがと、余計な心配をしてしまうほどに。

ともあれ、この目の覚めるような(眩むような)視覚体験はとても新鮮で、こういった方法もあるのかと、感心した部分も大きかったです。まもなく花火の季節。これらの作品の記憶を、夜空に重ねて思い描いてみるとしましょう。