A:茶室DEアート(紅桜公園茶室 寿光庵)

茶室DEアート(紅桜公園茶室 寿光庵  2011/7/16-18)

しとしとと降る長雨が、夏の緑をけぶらせます。そんななか、当ブログに何度かご登場いただいている澁谷俊彦さんの講演とインスタレーションを目当てに、紅桜公園の「木乃実茶屋」と茶室「寿光庵」にお邪魔しました。恥ずかしながらの初訪問です。いずれも道産の木材をふんだんに用いながら、日本建築の伝統的な方法を各所に取り入れて建てられています。ただし性格づけは対照的で、「木乃実茶屋」は北方の荒削りさ、ダイナミズムを感じさせる空間を、「寿光庵」は洗練された様式美を感じさせる空間を、それぞれ演出しています。

本来であれば当ブログは、作品のみから得られた感想をつづることを目的としているのですが、今回にかぎり(時間の都合上やむをえず)、先に講演をお聴きしてからの拝見となりました。会場は「木乃実茶屋」。講演の内容は、絵画から出発した澁谷さんが、いかにして現在のインスタレーションという手法へと至ったのかという経緯の説明でした。僕が理解したところを大雑把に図式化してみますと、まず第一段階では、柱状や半球状のオブジェの平面を画面とすることで、額縁や壁面から絵画を開放するとともに鑑賞に方位的自由と距離的な自由を与え、第二段階では、小さなオブジェの導入や反射光の演出によって作品への心的接近を促し、第三段階である現在では、具体的な光景を見立て、現実的なイメージとの親和あるいは衝突を生むことで作品への円滑な導入を試みられている、といったところだったかと思います。見立てという方法を採用する必然性を語る理論に若干の弱さを感じたのと、おそらくは僕と、サイトスペシフィックという概念の認識あるいは用語に齟齬があったためか、今後の展望について思い描かれていることを十分に理解しきれなかった部分がありましたが、全体としては非常に論理的でしたし、深い自問自答、徹底した試行錯誤、作家としての強い自覚と責任感を窺わせる奇特なお話でした。とりわけ僕にとっては、変節の途上、おそらく作品と鑑賞者との関係という問題が(それが自分の作品をどう見せたいかという能動の相であるか、どう見てほしいかという受動の相であるかは定かではないけれども)重要な関心事であったであろうことが、大変興味深い点でした。鑑賞者に主体的な鑑賞を促すことが僕は常々必要だと考えているので、積極的に論理的に鑑賞者との関係を築こうとする澁谷さんのこれまでのシークエンスには共感する部分が多かったです。

講演を聴き終えたのち、隣接する茶室「寿光庵」に設置されている作品を拝見です。茶室とは言っても四畳半以下のいわゆる草庵型のものではなく、一〇畳と一五畳の二間をつないだ広々としたつくりです。置かれている作品は大別して二種類。茶色く細長い板の上に白い砂を敷き、さらにその上に真っ白に塗られた板を置いたものが八点(?数え忘れました)と、透明なアクリル板で作った水槽に水や砂を入れて、その上にやはり白く塗られたオブジェを置いたものが四点ありました。板状の作品は、上に載せられている白い板の形がそれぞれ異なります。真っ直ぐなものもあればねじくれているものもあり、波打っているのものや複数の板が重ねられているものもあります。それらの裏面(あくまでも上から見たときに裏面に相当する面)には例のごとく蛍光塗料が塗られており、茶色い板や白い砂の上に艶やかな陰を落としています。配置は極めて意識的で、畳や敷居が描き出す縦と横の直線の模様に対し、斜めの補助線を加えるようなかたちで置かれています。あまり恣意的な読み方はよくないのですが、縦と横の静粛な和音のなかに斜めの非和声音を差し込むことで、茶室の空間に豊かな旋律を生む試みのように見えます。開け放たれた障子から室内に響いてくる雨や風の音が、作品の造形とシンクロします。この具体性(具体的なものとの結びつきを連想させる喚起力)は、澁谷さんの作品の大きな強みだと思います。また、これまでに拝見した作品についても言えることなのですが、澁谷さんの作品は床の模様との親和性が非常に高いですね。もっとも床の模様は空間のもつ方位性を直接的に反映するものですから、空間を意識していれば自然と床の模様との親和性も生まれるということなのでしょう。

一方水槽状の作品は、縁側に配置されています。四つのうち三つに水が張られ、残りの一つには白い砂が入れられていて、それぞれにオブジェが異なります。水が張られているものには、桜の花びら(紅桜公園へのオマージュか)、蛙とその周辺のジオラマ、亀とその周辺のジオラマが浮かべられ、砂が入れられているものにはキノコと朽ちた木が置かれています。いずれも真っ白なのですが、表からは見えない部分には蛍光塗料が塗られ、水槽の底や砂の上に赤やオレンジの光を反射しています。とりわけ桜の花びらのものは、水面に浮かぶ無数の白い花びらの周辺に赤い光がにじみ、水の中に花びらが溶け出してゆくかのようで、無常感にも似たせつなさを臭わせつつも妖艶な印象を残します。これらの水槽状の作品は、上から見ると二〇センチ四方ほどの正方形で、のぞき込んで作品世界に没入するにはちょうどよいサイズです。具体的なモチーフを利用することで、直接的に鑑賞者の関心に働きかける内容であることも、没入へ誘うには効果的です。縁側という開放的な空間に置いたのも、その反作用に期待するがゆえでしょう。理詰めで計算尽くで、少々憎らしいですが、確かに面白い仕掛けです。

以前も似たようなことを書いたのですが、全体として見ますと、澁谷さんの作品は優れてコンセプチュアルで、かなりのレベルでそのコンセプトを実現されているように思われます。隙がなく、面白いのだけどとっかかりが得づらいという印象も、今回も同様です。インスタレーションを成立させる方法論が非常にシステマチックであることが(もちろん毎回試行錯誤されているに違いないのですが)、その要因なのかとも思います。つまり、すでにある程度コンセプトの固まった制作物があり、それを設置する場に持ち込み、場から得られたインスピレーションを消化して制作物の設置方法を工夫したり内容自体に改変を加えるなどして、制作物と場とを協働させることでインスタレーションを成立させるという方法が、しっかりと確立されきっているのではないかと思うのです。まず制作物ありき。そしてそれを設置する場に即して論理武装させ、インスタレーションとしての体裁を整える。なるほど隙のない作品となるはずです。

しかしこれとは逆の方法論、すなわち場ありきで始まる作品もまた成立し得ます。例えばサイトスペシフィック・アートと呼ばれるものがそれです。もしサイトスペシフィックという概念の導入を目指すのであれば、作品における場の重要性は俄然増してきます。具体的に指示し得る特定の場とそこに設置することの必然性、「ここでなければならない」という強固な限定性を有すること、それがサイトスペシフィックの要件だからです。こういったサイトスペシフィックというあり方と対照すると、澁谷さんの作品は、正しい意味でのインスタレーションとして見えてきます。場そのものには意味を持たせず、制作物を設置することで、どのような空間でも作品として提示し得るのだということを、まさに実践されているように思えます。それゆえに、作品における場への意識については、強さの絶対値は同等だとしても、澁谷さんが現在のインスタレーションで実現されているコンセプトとサイトスペシフィック・アートとでは、そのベクトルが大きく異なっているように思えるのです。ですから澁谷さんが作品における場というものに、どれほどの重要性を認めているのか気になるところでありますし、インスタレーションからサイトスペシフィック・アートへとどのような理論をもって飛翔されるのか、改めて伺いたいところでもあります。さらに付け加えるならば、サイトスペシフィックという指向には、一度額縁から外した絵画に新たな額縁を付けるような危険性も伴うはずです。その対処法も伺わなければなりません。

ただし、サイトスペシフィック・アートをインスタレーションの発展形式であるとする考え方もないわけではありません。特定の場で行うインスタレーションがサイトスペシフィック・アートだという理屈です。ですが僕としては、美術館という場に対する反発が、場との結びつきを徹底的に希薄にするインスタレーションという方法と、美術館以外の全く別の場との結びつきを獲得するサイトスペシフィックという方法を生み、個別に内容が充実してゆくにしたがって、それらの境界が曖昧になっていったと見るのがよいのではないかと思っています。様式や方法論なんて、都合良く順序よく表れてくるわけはないですから。ともあれこのあたりの認識の違いが、僕と澁谷さんの間にはありそうです。錯綜した議論になりそうなので、ゆっくりお話しできる機会があればその時にでも。しゃべるのは得意ではないのですけれども。

やや興奮気味に書きましたが、諸々はさておいて、単純に、これほどの理論構築をされる方が、従来のコンセプトや制作物を一旦忘れ去って、場のみから発想して作品を作ろうとした場合どのようなものができるのか、目撃してみたい気もします。目指すものが違うと一蹴されそうですが、いかがでしょうかね。妄想だけ勝手に進めさせていただきます。

さて、随分と長く書きました。過去最長です。実はこのあと、お茶つながりで、モエレ沼公園ガラスのピラミッド内で開催されていた「folding cosmos/内在する宇宙」へも伺ったのですが、なにか書こうにも、もう頭もお腹もからっぽです。気が向いたらまたいずれ。