A:加藤宏子 彫刻展(ギャラリーミヤシタ)

加藤宏子 彫刻展(ギャラリーミヤシタ 2011/6/22-7/10)

街中から西進した円山の一歩手前あたり。裏参道からはずれ住宅街へと入り込んでいくと、一軒の家宅と見まがいそうで、けれどある種の人には明らかにそれとわかる、「ギャラリーミヤシタ」さんがあります。開廊から二五年もの歴史を誇る、札幌の老舗ギャラリーです。いい雰囲気です。おしゃれなカフェギャラリーといった佇まいですが、ストイックなことにギャラリーとしてのみの運営です。展示スペースはさほど広くはありません。二〇畳くらいでしょうか。一階部分の八割ほどをあてた、板張りの床と白い壁の暖かみのある空間です。二階も使用できるようですが、今回は閉鎖されていました。

拝見したのは加藤宏子さんの作品です。植物を象ったような造形のオブジェが数点と、額装された平面的な作品が二点、展示されていました。いずれも純白の紙が素材として用いられていますが、即座に紙と言い切ってしまうことに、ためらいを感じもします。我々が一般的に「紙」と聞いて想像するものの姿はそこにはなく、おそらくは紙をほぐして得られた繊維が、蝋で作った型(作品を子細に見ると、細かな蝋の残骸が付着している)に押し込まれて形づくられた立体的な造形物となって提示されているのです。反面、これを立体として認識することも、やはりためらわれてしまいます。なぜなら、例えば花の蕾のような形をした箇所に目をやると、表面的には人の頭ほどの大きさの立体的な造形物であるけれど、中を覗けばそれは中空の構造で、紙と呼びうる平面的な繊維の塊を三次元的に周回させることで造形されたものであることがわかります。すなわちこれらの造形物はあくまでも平面の連続体であって、その素材を紙と呼ばない理由が見当たらなくなるのです。

自省をこめて紙の定義を検証してみるならば、辞書的には、植物の繊維を漉いたり押し固めたりしてつくられたもの、ということになるようです。その際、立体か平面かといった形状は問題とされません。これに従うと、加藤さんの作品は紛れもなく紙ということになります。ですが、普段の生活の中で紙というものの存在が、平面であることに依拠する有用性と深く結びついていることを考えれば、立体的に形成されたこれらの作品の素材を紙と断ずることには、理性では同意できるものの、生活感覚が拒絶反応を示すのです。

加藤さんの今回の作品は、平面と立体のはざまにあり、また紙と紙でないもののはざまにあると言えるでしょうか。思いがけず、「紙とは何か」という問いを突きつけられて、大変戸惑いました。こういう刺激は大歓迎です。

造形の部分に目を向けてみましょう。床に置かれた大きな作品は植物の茎と蕾のイメージでしょうか。小作品は植物の芽のようにも見え、地面に突き立つ鳥の羽のようにも見えます。壁にかけられた平面的作品は、古木の樹皮のようでもあり、折り重なる無数の貝殻のようでもあります。このように多様なイメージを想起させられますが、表そうとしている事柄はシンプルです。いずれも表面はごつごつとした盛り上がりが連続する造形で、自然のなかに存在するリズム、すなわち植物の表面や樹皮の襞に表れる凹凸や貝殻の年輪、動物の鱗や羽に見られる規則正しい配列などが刻む固有のリズムを象るかのようです。造形的には非常に洗練されていて、なるほどと、納得のゆく仕事と言えます。

ではなぜリズムというものを追求しているのかと問うべきでしょうが、素材の面白さに対して、やや負け気味といったところでしょうか。僕のなかでは「紙なのか、紙ではないのか」といった問いばかりがぐるぐると巡ります。もし作家が「紙」の問題と「リズム」の問題の両方を意識しているのであれば、それらをいかにして同時に、バランスよく問うかということが課題といったところでしょうか。とはいえ、面白い刺激をいただきました。