A:sumomo展 ひらがな表 de art(ART-MANgallery)

sumomo展 ひらがな表 de art(ART-MANgallery 2011/6/28-7/3)

東区と中央区との境にほど近く、しかし創成川イーストと呼ばれる再開発地区からはちょっと離れた、古き札幌の面影が残る一角にある「ART-MAN gallery」さんにお邪魔しました。街のはずれにひっそりと佇むのがよく似合う、こぢんまりとしたギャラリーです。やはりそこはかとなく、頽廃的な雰囲気が漂います。周辺は人の気配が少なく、空気が淀んでいるような気さえします(失礼)。豊平川の高い堤防のせいで閉塞感、圧迫感が強いためと何の根拠もなく考えてみましたが、本当にそんな気がしてきました。

開催されていたのはsumomo(すもも)さんという方の個展です。「生活に・・育児に・・もっとアートを・・」というテーマに則って、育児という部分に焦点をあてた「ひらがな表」の作品と、おそらくは生活の部分に焦点をあてた平面の作品が展示されています。

「ひらがな表」については、語ることは多くありません。紙をくり抜いたり貼り付けたりして50音の表をつくり、1音ごとにその音を頭文字とするもののイラストを付したものです(ex.「あ」→あり 「い」→いす)。「い」「き」「せ」「た」「つ」「な」「へ」「み」の箇所は目立つようにマーキングされていて、この8文字を並べ替えると「たいせつなきみへ(大切な君へ)」というメッセージが浮かび上がってくるという仕掛けです。憎い演出ですね。心が温まります。

一方、他の平面の作品は、モノクロームを基調とした抽象絵画です。絵の具の盛り上げによって幾何学的な模様を描いてみたり、ものによっては、支持体に貼り付けた紙の凹凸を利用して立体感のある画面をつくり、さらにその上に水滴をぼたりと落とした跡のような形の紙を貼り付けてあります。一見素朴でありながら、その実複雑な手法によって構築された画面は、恣意的な意味の読み取りを回避することへの腐心を窺わせます。貼り付けられた紙の凹凸が描き出す幾何学的な模様は、大都市の高層ビル群か、港湾を俯瞰した眺めにも見えますが、表面に貼り付けられた紙が視線を収斂させることで、それらを無意味な背景へと後退させる効果があります。またその背景自体の処理も巧妙です。飾られる壁面と同化させることを目論んでいるのか、特に白を基調とした作品は、乳白色で付されたシミのような部分とあいまって、古びた白漆喰の壁面を想起させるのです。「生活に・・育児に・・もっとアートを・・」というテーマを思い出してみるならば、作品を過剰な意味の読み取りから切り離し、さらに生活空間と同化させることによって、アートと生活との距離感を縮めることが試みられている、といったところでしょうか。

ですが、もしそうであるならば、いささか短絡的に思えますし、作家のアートというのものの認識にも疑問をもってしまいます。なぜなら、「生活に・・育児に・・もっとアートを・・」という言葉からは、作家がアートを、生活から隔絶したところに存在するものとして想定しているであろうことが窺われるからです。たしかに、近代における概念の形成史を考えると、社会の諸関係から自立(independent)し、かつ、そのものの内的な摂理によって自律(autonomy)するものとして、芸術というものが想定されてきた事実はあるでしょう。ですが、それに反省を加えず、いかにも生活と隔絶されていそうな絵画という媒体を、内容に少し工夫をしただけで生活に接近させようとする方法は、やはり短絡的と言わざるを得ません。生活とアートということを考えるのであれば、そもそもその両者は隔絶していたのかという問いかけがまず必要なのではないでしょうか。そして、もし隔絶していたとするのであれば、両者を隔絶したままにしておく、あるいは接近させる必然性を問い詰めるべきでしょうし、隔絶していないとするのであれば、ものの面から、そして概念の面からも、アートと生活がいかに融和しているのかということを示すべきでしょう。

拝見した作品は、朗らかで、快適で、これらが生活空間のなかにあれば、たしかに日常が豊かになるだろうと思われるものばかりでした。しかし、問いかけと証明がなければ、おそらくは作家が目論んでいるような、アートのあり方を変えるための有効性を持ち得ません。どうかご一考いただきたいと思います。