A:これから下りていこう / 斎藤周 (TEMPORARY SPACE)

これから下りていこう / 斎藤周 (TEMPORARY SPACE 2011/6/11-6/26)

北大のキャンパスの北東の端、通称「ななめ通り」沿いにある「TEMPORARY SPACE」さんにお邪魔しました。遠くから見ると普通の木造の一軒家なのですが、近寄ってみると正面間口は総ガラス張り。そこから覗く室内は、真っ白い壁に真っ黒い床。もちろん壁には作品が掛けてあったりするわけで、ただならぬ雰囲気が漂います。道行く人がいぶかしげに中を覗くこともしばしばあります。アートに関心を持つ人でなければ、瞬時にここをギャラリーだと理解することは難しいかもしれません。そもそもこうしたミニギャラリーが各地でひっそりと営まれ、それらが現在進行形で、アートを生成・消費する場として機能しているという事実すら知られていないのかもしれないのです。札幌という街に関して言えば、過日「札幌ビエンナーレ」のプレ企画として、「美術館が消える9日間」というイベントが開催されたことを思い出します。アートとの接触は美術館という制度を通じて与えられるものという刷り込みにすり寄るかたちで周知、実現されたこのイベントは、結局のところ、美術館という制度への確信を与えつつ、市民の好奇の視線を遍在するアートの生成の場から遠ざけたのではないかと疑わざるを得ません。この街のアートにとって足りないのは、一時的な好奇心を煽るようなイベントではなく、日常的な実感なのではないでしょうか。それこそ街の片隅のミニギャラリーなどで、アートが現在進行形のものとして生成され消費されている、そんな実感に欠けているのではないかと思うのです。

そうした実感を浸透させることは、なま易しいことではないでしょう。せめて僕にできることは、こうして駄文を綴り、独りよがりのアートの楽しみ方を披瀝することで、(いらっしゃるかどうかわかりませんが)読者の方がアートと接する際に、例えば作者の真意をくみ取らなければならないという責任感なり、制作の背景や時代状況などを鑑みて考察しなければならないという強迫観念なりからいくらかでも身軽になって、主体的な鑑賞を存分に楽しむことの助けとなることを祈るのみです。今のところは・・・

興奮気味に書いてしまいました。閑話休題です。

今回拝見したのは斎藤周さんの個展です。以前も何度か作品を拝見したことがあって、作風については、失礼な言い方になるかもしれませんが、メルヘンチックという認識をしていました。あくまで「チック」です。基本的には、白地ベースに、植物の蔦や葉を思わせる線や色面をパステル調の明るい緑や赤で、キャンバスと言わず、壁面と言わず、時にはその境界をまたぎながら縦横に描きます。明るい色彩や、女性の後ろ姿のシルエットなどを織り交ぜるあたりに絵本や童話の世界との親和性を感じつつ、警告色を身にまとう有毒生物を見たときに感じるおぞましさに近い感覚も抱いていました。この明るさに、すんなりと同調できない何かを感じていたのです。この戸惑いやおぞましさは、草間彌生や奈良智友あたりにも通じるものがあります。

今回拝見したのは、個展のタイトルともなっている「これから下りていこう」と題される最新作です。60〜80号ほどの大きさのものが3点と、2〜3号ほどのものが数点。あとは壁面に、白地に染み入るように描かれたものもわずかにありました。作品は、少なくとも表面的には、以前と比較すると大きく変わってきたように思えます。画面に表される風景は具体性を帯び、地面の起伏や人物の存在感を具象絵画のように把握できます。一方、明瞭だった輪郭は捨てられ、にじむような色彩の線と斑にとって変わられています。画面が具象的に見えるのは、明瞭な輪郭とともに、虚構ならではの完結性が拭われたせいかもしれません。これはよい傾向だと思えます。自己完結した独り言ほど、聞かされて不快なものもないですから。

色彩は、ピンクやライトグリーンが奔放に振るわれ、作品によっては青色なども複雑に織り交ぜながら、より鮮やかになりました。ただしその鮮やかさは、明るさには通じません。むしろ重苦しく、不穏な空気を画面に漂わせています。あるいはそれは、描き込まれる後ろ姿の人物たちにも喚起されているのかもしれません。はっきりと母と娘だとわかる人物像が、こちらに背を向けて、坂を下りていこうとしています。遠くには、すでに坂を下りきった人たちの姿も見えます。不穏な色彩が、これらの人たちを取り巻く物語を想像させます。どこから来たのか、どこへ行くのか、何のために下りていくのか・・・。見通しの得られない不安が、心の中で渦巻きます。

ひととおり想像するものの、結局それらしい解答を得られず、呆然とする以外にありません。ただし、それも作者の掌の内のような気もしますね。だからこその「これから下りていこう」なのだろうと。意思表示とも促しともとれるこの言葉には、大仰な意義づけや、断固たる決意などによらず、重力に身を委ねるかのように一歩を踏み出すことを受け入れる、意思の働きがあるように思われます。すなわち、作者の真意や作品の意味を探ることにとらわれずに、見たまま感じたままに楽しむことを求められているようにも思われるわけです。

とはいえ、やはり画面に漂う不穏な空気だとか、下りることの意味だとか、気にしないではいられません。無批判に受け入れることよりも、できるだけ疑い、できるだけ探り、できるだけ考える方が、僕の性には合っています。記号論的かつ恣意的に、作品のあらゆる部分から無闇に意味を読み取ろうとする努力には自戒を与えつつ、作品について考えること、作品から考えることは無意味ではないと信じつつ、今後も作品と接してゆきたいと思います。とりあえず斎藤さんについては、どんどん芸術観を深められているという印象を持ちましたので、またしばらく注視させていただき、考察を続けてゆきたいと思います。

今回は、大風呂敷を広げて収集がつかなくなる文章の典型ですね。それだけ「TEMPORARY SPACE」さん、および斎藤さんの作品から考えることが多かったということで、どうぞご容赦を。