A:松久恵理個展 -28- 向き合い、叫ぶこと。大切にすること。(ギャラリー門馬&ANNEX)

松久恵理個展 -28- 向き合い、叫ぶこと。大切にすること。(ギャラリー門馬&ANNEX 2011/6/4-13)

旭ヶ丘の閑静な住宅街にひっそりと佇む、「ギャラリー門馬」さんにお邪魔しました。周囲に住宅があるものの、なんだか自然のなかのギャラリーといった風情です。やけに高さの低いドアを開け、くぐるように入ると、そこがギャラリースペースです。幅1.5Mほどの白塗りの廊下のような空間が、20Mほど伸びています。突き当たりはガラス戸になっていて、テラスに通じています。そしてその先は崖。驚くほど密度の高い木々や野草の世界へと、落ち込んでゆくかのようです。ギャラリースペースの片側の壁は一面が窓となっていて、差し込んでくる光が白い壁や床に反射し、この時期の比較的おだやかな日差しでも目がくらむほど。よく言えば外とは別世界のようですし、悪く言えばビニールハウスや小学校のプールのような・・・そう、思い出を呼び起こす空間とでも言っておきましょうか。

開催中の松久恵理さんの個展を拝見しました。失礼ながらお名前を存じ上げなかったのですが(僕が無知なだけですが)、なかなか楽しい時間を過ごさせていただきました。即興性の高そうな抽象画の作品が並んでいます。アクリル絵具を用い、かすれを生む荒い筆致と絵具の盛り上げをふんだんに駆使した作風は、とりたてて珍しいものではありません。色づかいもそうですね。鮮やかな原色と暗色の組み合わせなどされていましたが、何か特別な意味がありそうでもなく、斬新というわけでもなく、どこかで目にしたことがありそうだなと、ノスタルジックな感興をややくすぐる程度です。もちろん斬新さは、それだけで作品の価値を決めるものではありません。作品によって実現されるコンセプト、作品によって何かを伝えようとする意志、あるいは作品から伝わる何か、それらと必然的な繋がりを持って発揮されるのでなければ、斬新さの追求は無意味な遊びに過ぎないのです。ですから闇雲に変わったことや新しいことを試みるよりも、既存でもよいのでひとつの技法とじっくりと付き合い、それによって生み出した作品と対話をしながら、自分なりの展開の訪れを俟つというのがよいのかもしれませんね。しかし一方で、闇雲な実験から次の展開への手がかりが得られ場合も多々あるでしょうから、一概には言えないのですが。

相変わらずの想像にもとづいて続けますが、松久さんの作品を見て面白いと感じたのは、次に踏み出す一歩を勇み足だと言って踏みとどまらせようとする声と、先に進めと後押しする声との狭間で揺れ動く、迷いのようなものを感じたためです。上に書いたように、どちらがよいのかは僕にもわかりません。ただ言えることは、松久さんはそのどちらも肯定しながら、おそらく今後、より深く迷われるのだろうなという予感がするということです。そこに向かう決意表明として、本展は十分に意義のある個展だと思います。

あるいは自身の女性性というものも、何かしらの背景になっているようにも思えます。まさに女性性を意識させるような作品がいくつか見受けられました。素描のような鉛筆書きの作品や、透明なシートにインクジェットプリンターで転写した作品などは、女性の身体の一部を切り取ったような造形です。唯一置かれていた立体の作品は胎児そのもの。アクリル絵具の作品にも女性の後ろ姿を描いたであろうもの(「back style」)や身体にかかる抑圧への抵抗を感じさせるもの(「重み」)などがありました。芸術上の問題以上に切実な問題と、向き合おうとしているのかもしれません。作品からの単純な連想ではありますが。

そんななかで、やや異色だった「白い場所を用意して」という真っ白い画面の作品が気になりました。素材を見ると「写真」とあったので、キャンバスに写真を貼り付けて、白い絵の具で塗りつぶしたといったところでしょう。何度も何度も執拗に、刷毛をふるったのでしょう。ごつごつと盛り上がる厚い絵具に隠されて、もとの写真がどのようなものであったのかはうかがい知ることができません。記憶との決別、あるいは記憶の忘却といった含意なのでしょうか。方法としては(僕の解釈としても)ありきたりですが、ストレートで、それだけに強い意志を感じさせます。用いた色が白というのがいいですね。潔く、前向きです。

本展のタイトル「-28-」はご年齢でしょうか。僕が28歳のときはたいそうな迷いも決意も展望もなかったですね。自分を取り囲む流れのようなものに、身を任せることを覚え始めたころだったかと思います。なんとなく生きてきたつもりもないですが、こうして強い意志を感じさせる(僕からすればそう見える)作品と接すると、まぶしくて目がくらみそうです。決してこの空間のせいだけではなしに。