A:畠山雄豪/志田文実 二人展「光模様」(富士フイルムフォトサロン札幌)

畠山雄豪/志田文実 二人展「光模様」(富士フイルムフォトサロン札幌 2011/6/3-8)

焼きトウモロコシの香りに鼻腔をくすぐられつつ、ふたつめの寄り道です。フライヤーの写真に惹かれて訪れたのは、移転して新装された(ずいぶん前のことですが)「富士フイルムフォトサロン札幌」です。札幌市写真ライブラリーが閉鎖されてから、札幌の写真の受け皿がいささか心許なくなった感は否めません。こうした企業が設置するギャラリーがあることは救いですが、役割が違いすぎるために安心はしていられません。写真に撮られることは、ことさら盛んな札幌ならびに北海道なのですから、生産された写真の公的な受け皿がひとつくらいあってもよいようには思うのですがね。なかなかうまくゆかないものです。

さて、久しぶりに見る写真の展示です。「光模様」という素敵なタイトルがつけられていたので期待していたのですが、命名の本意はどうにも曖昧でした。「写真は光がフィルム上に描き出す世界の物理的な痕跡なのだから、すべての写真は光によって描かれる模様である」(←執筆者の戯言)なんてことを言いたかったわけではないと思うのですが、光というものに対する果敢な取り組みを感じさせるような写真は、特に見当たらなかったですね。比較してみると、畠山さんの写真には彼なりのロジックというかコンセプトというかがあって(例えば「境界」など)、それに沿った写真を撮るということをされている。自覚的かつ構築的な方法論を持っているという印象です。対して志田さんはスナップショット的です。身近な人(?)をモデルにしたり、自分の目撃したものや行動の軌跡を写真に収めるドキュメンタリーに近い方法論でもって撮っているように見えました。

ともに奇をてらったような演出もなく、特別な技術もふるってはいません。素直でよい写真を撮っていると思います。ただ素直すぎるきらいはありますね。目にした光景をそのまま撮っているだけで、作品として提示するには一歩足りない。representationができていない。壁に掛けている作品より、ブックレットの方が魅力的に見えましたが、やはり一枚一枚の写真の力が不足しているためでしょう。

よく、東南アジアだったり中東だったりの山奥に出かけて、現地の子どもたちを撮った写真などを見かけますが、僕はああいった類のものが大嫌いです。無邪気な子どもがいそうな場所へ行って、無邪気な子どもをことさら無邪気に見えるように撮って、どうです無邪気でしょうと見せる写真なんて、何の意味があるでしょう。きれいなものをきれいに撮って、どうですきれいでしょうなんて見せられたって白けるだけです。その軽薄さに嫌悪すら感じます。大切なのはrepresentationです。とりわけ昨今、ますます容易に生成されるようになった写真というメディアにおいては、重要な問題だと思います。

おそらく若いお二人だと思うので、ぜひぜひ深く考えてみて欲しいものです。