A:阿部典英・展「ネェダンナサン・・・・・。」(ikor-art)

阿部典英・展「ネェダンナサン・・・・・。」(ikor-art 2011/5/6-6/16)

現在札幌彫刻美術館で開催されている「抽象彫刻30人展」出品作家のひとり、阿部典英さんの個展にお邪魔しました。阿部さんは、言わずと知れた北海道彫刻界の大御所です。人柄など、僕はあまり存じ上げないのですが、遠目から見てもいかにも豪放磊落といった風体。ガハハと笑っているのがよく似合うようなお方です。以前書いた記事の中で、彼の制作物をどうしても好きになれないと書きましたが、これを機にその理由について、少しばかり深く考えてみようと思ったのです。ひょっとしたらただの食わず嫌いということもあるかもしれませんし、言いっぱなしはあまりにも失礼です。

会場となる「ikor-art」(「イコロアート」と読むようです)は、写真家・清水武男さんがオーナーを務められているギャラリー兼カフェスペースです。普段は清水さんの写真を展示するためのスペースとして使われているようですが、初の試みとして美術展を開催するにあたり、阿部典英さんに是非にとご依頼したとのこと。ギャラリースペースは一室のみ。こぢんまりとしていて、ひとりの作家の作品とじっくり向き合うにはちょうどよい広さです。室内は心地のよい薄暗さで、天井近くの小さな窓から木漏れ日のように降り注ぐ外光が、さながら藻岩山の森の中に足を踏み入れたかのような気分にさせてくれます。

そんな空間に、阿部さんの「ネェダンナサン あるいは弾・断・檀」が、その姿を誇示するかのように鎮座しています。一見して異様です。何かの生命体が、忽然と佇んでいるように見えなくもありません。炭の塊から削りだされてような光沢のある黒い胴体には、無数の「いぼ」状の突起が規則正しく並んでいます。この何かの気まぐれで生み出されたような醜悪な姿のなかに、我々と共有されうる秩序が存在しているという事実が、実におぞましい。繊毛のような無数の赤い棘の方が、まだ安心して見ていることができます。それだけであれば、不用意に触れなければ害はないとわかるからです。しかし秩序を宿す醜悪な本体からは、本質的には私とおまえは同じなのだと、親しげに語りかけながら知らぬ間に忍び寄ってくるような不気味さと、隠しきれない潜在的な敵性が、ひしひしと伝わってきます。

しばらく眺めていて、ふと思い当たることがありました。これは、テレビの医学系の番組などで見かける、ウイルスや細菌のモデルに似ています。体の内側に入り込み、いかにも害を為しそうな姿で描かれるあれです。となると、突起が「いぼ」という解釈も、あながち外れてはいないのかもしれません。そこから短絡させれば、阿部さんは、身体的・生理的な不快感を具現化してみせていると推測することもできそうです。確かにこれまで拝見してきた、ねじくれ、うごめくような有機的な造形の作品からも同様に、生理的(ときには性的)な不快感を感じてはいました。僕が阿部さんの作品をどうにも好きになれなかったのは、それが理由です。ですが今回こうして正面から向かい合ってみると、もう受け入れるしかないというような諦念にも似た気持ちを抱きました。その不快感も含めておまえなのだと、意地悪く突きつけられたような気分です。

なるほど阿部さんは、さすがに達観されているのでしょう。人生の先輩のご教示を、今回は素直に受け入れておくことにします。好きになれるかどうかは別ですが。

追記:ギャラリーには「ネェダンナサン あるいは弾・断・檀」の他にも、短い棒状のオブジェ「ネェダンナサン あるいは木花」や、平面(的)作品の「水平にならぶ7つの凸」などの作品も展示されています。そして「ネェダンナサン あるいは弾・断・檀」は、これらの集合体のようです。またカフェスペースには「ネェオヨメサン」シリーズ数点が展示されています。本記事は錯綜を避けるため、メインのオブジェである「ネェダンナサン あるいは弾・断・檀」のみについて記述しました。