A:第26回 北の日本画展

第26回 北の日本画展(時計台ギャラリー 2011/5/16-21)

やや遅れましたが、最近見た展覧会ということで、「北の日本画展」について書きたいと思います。

毎年拝見している展覧会です。道内日本画界の重鎮・中堅・若手が顔をそろえ(もちろん他にも活躍されている方はいらっしゃるでしょうが)、だいたいの現状把握ができる機会なのでとても重宝しています。
今年も例年どおり「時計台ギャラリー」での開催。もっと整然とした空間で、それぞれの作品をじっくりと見たい気もしますが、出品数や出品作の大きさ、質の高い作品とそうでない作品とのバランスなどを考えると、このぐらいの空間がちょうどよいのかもしれません。

余談ですが、「にかわ絵展」という若手日本画家たちの企画も、同じ「時計台ギャラリー」で見ることができました。毎年1月頃に開催されていて、今年が最終回だったかと記憶しています。研究会のような性格の会でしたが、最後まで何を目的としているのかはわかりませんでした。おそらく、会として何を目指すかという明確な方針を持ち得なかったのでしょう。毎回お題を決めてそれに沿った作品をつくる、といったことはしていましたが、何のためにそれをやるのかということについては全く煮詰めていない。それゆえに無気力な、とりあえずの作ってみただけの作品ばかりになって、見ていて苦痛を感じるほどでした。研究会ともなれば思想的なバックボーンを持つことが必要となります。そうでなければ意味がないですから。もし持ち得ないのであれば、中途半端に研究会の真似事なんてしないほうがましです。早々に解散して正解です。「集まって、何かやろう」という意気込みだけを出発点としてしまったら、団体展は失敗するものです。

その点「北の日本画展」は、純粋に報告会のような趣(つまり集まるだけ)ですので、刺激こそ少ないものの何のてらいもなく、むしろ好感が持てます。もちろん団体展とはこうあるべき、みたいなことを言いたいのではありません。作家それぞれには追求する課題があって、(公募展のように、まず入選を目指す必要がないために)それを自由に披瀝できるこういった場があることを喜ばしく思うのです。見ていてほっとします。
ただしもちろん、出品されている作品を無批判で受け入れるわけにはゆきません。作家がそれぞれに追求している課題を現状でいかにして昇華しているかということについて、鑑賞者は批判してゆかなければなりません。鑑賞者の責任は、むしろこういった場において強く問われるような気がします。

気になった作品・作家について、いくつか書いてみたいと思います(順不同)。

○高橋潤「2人で1個」:今回1番気に入った作品です。垂れ下がるリンゴの皮、それを受け止めるために差しのばされた手。2人の人物の間に生じる微妙な緊張感と親愛の情が、室内を満たす光のよう、溢れ、揺らいでいる。見事な構成です。

前田健浩「浮遊実験」:色彩のバランスが絶妙です。制服姿の女子高生は現代日本画のなかでは使い古されたモチーフですが、色と形という方向から、斬新な取り入れ方に成功しているように思えます。画面右側の浮遊物は、空間に固着しているようにも見えるのでもうひといき。

○小林文夫「静」:数年前には草いきれさえ感じさせるような迫真さがあったのですが、最近の作はやや荒っぽく、風景に入り込んでいけない。今作もしかり。緻密な感じの作品の方が僕は好きでした。

野口裕司「アニマ」:やっていることはいつも同じように見えます。解説など聞けばまた違うのかも知れませんが、食傷気味です。

○蒼野甘夏「梅は咲いたか」「桜はまだか」:先の個展も拝見しました。様式美との遊びが盛り込まれた粋な画面は、非常に面白いと思います。欲を言えばもっと作家自身のヒューモアというか人間性を見たいです。その遊び心の所在を探りたくなります。

○駒沢千波「ピアニッシモ」:いつもどおりの多重モチーフによる画面構成です。個々の描写は近年冴えてきましたが、どれもが並列で、様々な階層の事象が浸食し絡み合う、世界の複雑な様相を描き切れていません。木の枝のみが、十分な存在感をもって各層を横断していたようでした。ここだけは成功。

○谷地元麗子「牡丹」「花菖蒲と蝶」:花の優美さ、妖艶さ、凛とした美しさはなく、かといって意匠化されたような様式美もありません。女性や猫を描いていたときの端正な線は失われ、自信を喪失したような弱々しい線に取って代わられていました。試行錯誤しているのでしょうが、作家が描きたいものを描いているようには思えませんでした。残念です。

以上、思いつくままに。